今回は旧東海道踏破の旅の続き。

前回の盆休み以来、厳しい暑さと雨で歩くことができなかったが、暑さがわずかに和らいだ9月12日、静岡始発のこだま号に乗り、豊橋から名鉄快速特急に乗り換えて、あっという間に東岡崎に到着。

静岡市は雨が降っていたが、予報通り岡崎市は薄い雲から太陽が透けていた。蒸し暑いが、雨が降らないだけありがたい。


10分ほど歩き、出発地点の西本陣跡からすぐの場所にパン屋があったので購入し、パワー全開。小さなエビバーガーがムッチャ美味かったぜ。

時刻は7時30分。では、前回のゴール地点である岡崎宿西本陣跡のコンビニ前から、池鯉鮒宿に向けて”GO”です!
カメラ:LEICA M11(+Visoflex 2)
レンズ:LEICA SUMMARON-M f5.6/28mm
二十七曲り

前回も書いたが、岡崎城下の岡崎宿には27もの曲がり角があり、二十七曲りと呼ばれていた。
現在もその曲がり角は残っており、その角には道標があり、名前とともに『い・ろ・は・に・ほ・へ・と・・・』と、いろは歌が一文字ずつふられている。
この角は『ほ』なので五番目の角になり、道標の通りにここを左に曲がる。


60m進んだら『へ』を右へ。
複雑な二十七曲りだが、この道標を目印に進めばいい?いや、場所によってはこの道標が無いところもある・・・。

曲がった先に今度は『きらみち』と刻まれた古い道標がある。
こちらは明治期に建てられたものらしいのだが、何ヶ所もの修復の跡。建てられてから100年をゆうに超える年月が経ち、車が突っ込んだりしたのだろう。
旧岡崎銀行本店

その先に厳つい赤煉瓦の建物が見えてきた。こちらは旧岡崎銀行本店で、大正六年に建てられた国の登録有形文化財となっているそうだ。
岡崎信用金庫が買い取り資料館になっているようだが、なぜ岡崎銀行が買い取らなかったのか、と思い調べてみると、岡崎銀行は昭和二十年に東海銀行と合併したらしい。なるほど。
ちなみに、今回は先日購入したビゾフレックス2を初めて装着して撮影をしたが、絞って撮影をするとそこかしこにピントの山を示す赤い線が現れて使い物にならない。
ということで、ここで早くもバッグの肥やしに・・・10万円以上もしたのに・・・。


旧岡崎銀行本店を過ぎたらすぐの交差点を右に曲がり、

天下の道と呼ばれる、中央に広場がある道を進む。
この辺りに徳川家康公が生まれた岡崎城の籠田惣門があったらしく、その岡崎城に向かう道ということで天下の道という名になったのだろう。

そのまま大通りを渡り、芝が美しい籠田公園の園内道路を進むのが旧東海道。

そして秋葉山常夜燈のある籠田公園北西交差点を左折して、

歩道が広く歩きやすい連尺通りを進む。

その連尺通りに、あらためて二十七曲りの説明板があった。
岡崎城を囲うように設置される二十七曲りはまだまだ続くのだが、あの道標が所々設置されておらず、ガイドブックを確認しながら慎重に歩みを進める。

しばらく歩き、大通りを渡った先の1本目を右折。
久々の二十七曲りの道標があったが、いろは歌は『と』??
出発した角が『ほ』ですぐに『へ』があり、あれからだいぶ角を曲がったのだが、なぜ『と』なの??

連尺通りの二十七曲りの地図(黄色線)に赤線で書き入れてみたが、おそらく往時の東海道はこんな感じで『へ』から『と』までは一本の道だったのではないだろうか。知らんけど・・・。

そして細い道を80m進み、

丁字路の『ち』を左折。

100m進んでここを右折。道標は見つけられなかったが、ここが『り』と思われる。

そして名古屋銀行の看板がある丁字路を左に曲がり、

次の角を右へ行き、

すぐの角を左に進む。

あれ?ここが『ぬ』??
ということは、名古屋銀行看板の左と、その次の右は真っ直ぐだったのかな?

まだまだ二十七曲りの迷宮は続き、橋の手前の『る』を左に曲がる。
白山神社

曲がった先にスロープがあり、上っていくと、

徳川家康公の父である、松平広忠の守護神を祀っている白山神社がある。

本殿は建てられてから年月が経っているのであろう、四方を斜めに支える鉄骨が印象的だった。

また、境内には大ムクが天に枝を伸ばしていた。

白山神社を出たら右に曲がり三清橋を渡る。

渡り詰めのスロープを下るのだが、ここに『を』の道標。三清橋の手前の右が『を』だったのだろう。

スロープを下りたら、この標石を過ぎて2本目を左へ。


おそらく間違いやすい場所なのだろう、民家軒先の看板がありがたい。

すると国道1号線に突き当たるので、左の横断歩道を使い反対側の歩道に渡る(ガイドブックでは右の歩道橋を推奨)。

横断歩道で信号機が青になるのを待っていると、左手に徳川家康公が生まれた岡崎城が見えた。家康公が整備した旧東海道を歩いているのだから、せっかくなので、ぜひ、寄っていこう。

横断歩道を渡り右に曲がったら、ここを左へ。

250mほど歩き、


板谷町角の標石があるこの角を曲がるのが旧東海道だが、ここを真っ直ぐに進み、岡崎城へ。

そしてこの喫茶店を右に曲がる。
土曜の朝8時40分なのに、喫茶店は満員御礼。なるほど、これが名古屋名物モーニングか。
聖火リレー
そして、岡崎城に向かうため竹千代橋を渡ると、スタッフジャンバーを着た方がズラリと並ぶ・・・なんだ??

さらに進むとステージが設けられており、スタッフから、
「ランナーがまもなく到着しまーす」
と、アナウンス。マラソン大会?

そして神橋には警察官の姿もあり物々しい雰囲気・・・何??

と、ここで解決。愛知県でアジア競技大会が行われるらしく、その聖火リレーが行われてるようだ。

程なくして聖火ランナーが現れ、目の前で聖火キッス。

はい、ポーズ!
いやー、何気なく来た岡崎城で、偶然にも聖火リレーを初めて拝見できてラッキーだった。
岡崎城

聖火リレーが終わると通行可能となり、昭和三十四年に復元された三層五階の復元天守を見上げる。
徳川家康公が生まれた岡崎城は、江戸時代以降に神君出生の城として神格化され、本多氏や水野氏などの譜代大名が代々城主を務めた。

その岡崎城のとなりには龍城神社がある。家康公誕生の朝に、金の龍が城の上に現れ(ウソだろ!?)、この名前が付いたのだろう。
松と鳥居の先に城があるこのアングルが素敵だね。

偶然出会した聖火リレーと岡崎城を堪能した私は、先ほどの板谷町角まで戻り、ここを左折して旧東海道に復帰する。

大通りを渡ったこの辺りが岡崎城の京口で、ここには松葉総門があったそうだ。

そして、愛知環状鉄道の高架をくぐると、雰囲気が一転する。
八丁味噌とドラマ『清純きらり』の宮﨑あおい

岡崎市の名物といえば八丁味噌で、ここからは老舗の味噌蔵が続く。
旧東海道沿いの左手にあるのが、創業延元二年(1337年)のまるや八丁味噌。

この日は蔵の見学会が行われていたようで、場内に多くの見物客が訪れていた。

その向かいにあるのが正保二年(1645年)創業のカクキュー八丁味噌。

この二軒の味噌蔵は、平成十八年のNHK朝の連続テレビ小説『清純きらり』 のロケ地として使われ、主演の宮﨑あおいさんの手形が設置されていた。
ということで、人目を気にしながら手を置いてみる・・・小さっ!
アホな私は、あのキュートな宮﨑あおいさんに触れた気がして、テンションが上がってしまったぜ。
それからは、このCMを見るたびに宮﨑あおいさんが身近に感じてしまう・・・。
おっさんキモッ!という発言はやめてください・・・。

名残惜しい気持ちを押し殺して宮﨑あおいさんと別れを告げ(?)、この丁字路を右に曲がる。
矢はぎ大橋と出合之像

そしてこの坂を上り、

矢作橋を渡る。

この矢作川には寛永十一年(1634年)に矢はぎ大橋が架橋され、東海道一の大橋だったそうだ。

矢作橋の渡り詰めに出合之像がある。
棒を持って立っているのが後に豊臣秀吉と名乗る日吉丸で、座っているのがその秀吉を支えることになる蜂須賀小六。両者はこの橋の袂で出合ったそうだ。

大都会名古屋が近くなりビルが目立つようになってきたが、橋を渡ってすぐの防音壁の切れ目を抜けて、

階段を下りたら、左に曲がり、

橋の下のガードをくぐり、

その先を左折するのが旧東海道になる。
勝連寺

すると、すぐ右手に勝連寺がある。

立派な瓦屋根の本堂には、織田信長の命により自刃した、家康の嫡男信康唯一の肖像画があるそうな。

旧東海道は古い家屋が残る雰囲気の良い街道だった。
弥五騰神社

勝連寺から300mほど歩くとあるのが、東矢作村の鎮守、弥五騰神社。

参道口には南無法蓮華経題目が建っていた。
誓願寺十王堂

奥手に見えるのが、長徳三年(997年)に、平安中期の高僧である恵心僧都が、溺死した慶念の冥福を祈るために御堂を建てたのが始まりという誓願寺十王堂。

本堂へは矢作保育園を抜けていくようだが、この日はアート引越しセンターが忙しく引っ越し作業を行っていたため断念する。

国道と並走するのどかな街道に似つかわしくない白バイが赤色灯を点灯しながら通過し、その後何台も連続して走り去る。事件でもあったのかは不明だが、ちょっと異常な感じだった。
竊樹神社

誓願寺十王堂から300mほど歩いた場所にある竊樹神社は、西矢作村の鎮守。

この日は廃品回収日の日だったようで、境内に大量の新聞紙や段ボールがあったが、その前に『ここはゴミ置き場ではありません』の看板。
まあ、看板はその前の場所のことを指しているのはわかっているが、不謹慎にも笑ってしまった。
福萬寺

竊樹神社の筋向いには福萬寺があり、境内には聖徳太子を祀る太子堂が設置されていた。

福萬寺から200mほど歩くと国道1号と合流。道なりに進み信号機を右に曲がってもいいのだが、右手の道を進むのが本来の道なので、忠実に旧東海道をなぞる。

ほら、東海道の看板が出ているでしょ。

しばらく国道1号線を進み、暮戸東交差点を右に曲がりちょっと寄り道をする。
大友皇子御陸遺跡

この金網に囲まれた場所に、



いくつもの石碑が建っているが、ここは大友皇子御陸遺跡。
672年(まだ元号が定められていない)の壬申の乱で、大海人皇子に敗れて近江で自害したとされる大友皇子だが、生き延びてこの場所に住んでいたという伝承が残っているそうだ。

国道1号線に復帰して進行方向左側に渡ったが、ガイドブックを見ると、国1右側の側道を通るのが本来の旧東海道。だが、ここ信号機のちょうど中間で、向こう側に渡るのには500mほど余分に歩かなければならない。

側道は歩道の2mほど横で、10m歩けば復帰するので、そのまま進むことにする。
ん?国1に合流するときに見せたこだわりは??
聖善寺


鹿乗川を渡り、その先にあるのが聖善寺。
慶長四年(1599年)に再像立された、聖徳太子16歳のときの木造太子像が安置されているそうだ。

また、境内には樹齢四百年の枝垂れ桜が見事に枝を伸ばしていた。春にはどんな花を咲かせてくれるのだろうか。
薬王寺

聖善寺のちょうど向かいに位置するのが、宇頭大塚古墳の後円上に建立されている薬王寺。
本堂の薬師瑠璃光如来は十七年に一度御開帳される秘仏らしい。

そしてすぐに安城市に入る。
私はYahoo!乗換案内を利用して、案内をされるままに静岡市から現地入りしているが、この日も行き帰りともに三河安城駅を案内されない。
接続が最悪と言われる三河安城駅は、どんな僻地にあるのだろうか。
本日は台風が近づいており不安定な天気で、僅かに雨が降ってきたが、すぐに止む。ゴールの池鯉鮒宿までなんとか持ってもらいたい。

そして尾崎東交差点の手前を右に進み、国道1号線と別れて旧道へ。

ここからは尾崎の松並木がしばらく続く。

松並木にイイ感じのS字。写真愛好家はそんなS字の線形があるとつい撮ってしまうのだが、広角だと全然ダメ。
熊野神社

尾崎の松並木を抜けると熊野神社。
この場所は鎌倉街道の分岐点にあたり、この神社の森は踏分の森と呼ばれたそうだ。
ところで、鎌倉街道って神奈川県で通った道なのに、なぜ愛知県で?
調べてみると、鎌倉時代に整備された道路網の総称で、全国各地に張り巡らされていたらしい。なるほど、そういうことね。
尾崎の一里塚跡

熊野神社の前に一里塚の碑。

江戸日本橋から八十三里目(325.9km)の尾崎の一里塚は、この場所にあった。
そういえば、八十里目の大平の一里塚以来の一里塚だが、八十一里と八十二里は??
調べてみると、八十一里は岡崎宿内で元からなかった可能性が高く、八十二里は矢作の一里塚だが、場所がはっきりとせず現在目印がないようだ。
写真の通りここにトイレがあるので拝借。歩いていると通り沿いの公共トイレが実にありがたく感じる。

そこから200mほど進んだ場所に、五郎兵衛地蔵尊が祀られる御堂がある。

ちなみに地蔵堂があるこの交差点は宇頭茶屋というらしいが、岡崎宿と池鯉鮒宿の間は15kmほどとかなりの距離があるので、往時はこの辺りに茶屋があったのだろう。

地蔵堂の先も閑静な雰囲気の街道が続く。
内外神明社

すると右手に鳥居があり、山道を歩いていくと、

二の鳥居があり、その先にだだっ広い敷地があり、さらに先に本殿。こちらは伊勢内外宮の祭神を祀っている内外神明社になる。
境内には遊具なども設置されていたが、週末の午前中なのに子供がいない。
子供にとっては最高の広場のように見えるが、最近の子の週末の過ごし方はテレビゲーム?

旧東海道に復帰して、明治天皇の石碑を見ながら進む。
永安寺


こちらは庄屋助太夫の屋敷跡に創建されたという永安寺。

この寺の特徴は、境内を覆い尽くす樹齢三百年の雲竜松。

通常、松は垂直に伸びるのだが、この雲竜松は1.5mのところから3方向に分かれて横に伸びており、見応え抜群だった。
明治川神社

明治川神社は明治十八年創建。
この辺り一帯は安城ケ原と呼ばれる不毛の地だったが、明治十四年に明治用水が完成して水田化が進んだ。
そのため明治川神社は、大水上祖神、水分神、明治用水建設の功労者を祀っている。

明治川神社を過ぎると、街道沿いにはまた松並木が現れる。

右手にある日吉神社は大浜茶屋村の鎮守。


松並木の中には背丈の低い松もあったが、これは近隣の小学校の生徒が植樹したようで、『松並木永遠に』と書かれたプレートが添えられていた。
百年先にはこの松も天高く育っていることだろう。
青麻神社

進行方向右手にあるこちらは青麻神社。

小さな境内には、江戸末期から明治にかけて活躍した、地元出身の五代目清見潟又市という力士の像があった。
相撲といえば、我が静岡県出身の熱海富士が大相撲で大活躍している。
力士不毛の地と言われてきた静岡県で初の大関になってもらいたいと、個人的に大いに期待している。達成したらデッカイ像をぜひ!

古い民家の軒先に大きなマキの木?
白須賀宿で強風と火防のために植えられた火防樹の槙を見たが、この辺りも風と大火の対策で植えられたのだろうか。
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そして、また松並木を歩く。

石田川先の常夜燈は大正三年の建立で、その奥に昭和五十年建立の鳥居と小社が祀られていた。

たくさん歩いてきたので緩い下りがありがたい。
左に見える豊臣機工は、この先の尾張で生まれた豊臣秀吉と関係があるのかと思い調べたが、直接の関係はなく、豊田に臣下を尽くす(恩に報いる)という誓いに由来しているらしい。
いや、絶対に意識して付けたんでしょ??

そして猿渡川橋を渡ると、

右手に鬱蒼とした森が現れた。
御鍬神社

その森は御鍬神社の境内を囲う木々だった。
こちらは近隣八ケ村が伊勢神宮より御鍬神を勧請し、各村輪番にて御鍬祭を奉祀し豊作を祈願したそうだ。

境内は白く綺麗な玉砂利が敷き詰められ、なんとも神秘的だった。


来迎寺交差点に対を成すように建てられたこの道標は、元禄九年(1696年)建立の無量寿寺道標。
来迎寺の一里塚

無量寿寺道標の先にある来迎寺の一里塚は、塚が現存しており、こちらは南塚になる。
今まで見てきた現存一里塚は400年を超える歳月の途中で、塚のあちこちから木が生えたりしていたが、来迎寺の一里塚はしっかりと整備されており、往時の姿のままの姿を見ることができた。
ただ、頂上に植る黒松はさすがに江戸時代のものではないだろう。

その向かいにある公民館の裏手にも!?

うわっ!北塚も残っているではないか!
一里塚マニアとしては大感動!久々に素晴らしい一里塚を見ることができたぜ。
江戸日本橋から八十四里(330km)。

ここでiPhoneが瀕死の状態となり、塚前のバス停のベンチで休憩がてら、iPhoneにエサをやる(モバイルバッテリーで充電)。
西教寺

来迎寺の一里塚から少し歩き、左側にあるのが西教寺。

境内にある旧本堂の大きな鬼瓦は、享和三年(1803年)再建時のもの。
鬼瓦を見ると、アルプス工業の鬼瓦権蔵を思い出してしまうのは、ひょうきん世代の宿命!?

鐘撞堂も立派。

左に見返弘法大師道道標、

右に元禄十二年(1699年)建立の無量寿寺道標を見ながら歩き、

歩道橋を渡り、

並木八丁と呼ばれた池鯉鮒松並木の左側の小道を進む。

松並木の入り口に池鯉鮒の石碑。さあ、本日のゴールはまもなくだ。

随分と見なかった道祖神だが、松並木の中に発見。男女双体道祖神だ。

この分岐はどちらが旧東海道??

池鯉鮒松並木が終わると国道1号線を渡るのだが、ここに横断歩道や歩道橋がないため、右に行き、

地下道へ。


地下道の中に案内板があるのがありがたく、案内の通りに突き当たりを右に進み、

地下道を出た先のY字路を左方向へ。

名鉄三河線の踏切を横断。道中は曇りがちだったが、雲の隙間から太陽が現れて気分が上がる。

ガイドブックによると、踏切を渡った先のこの辺りに地蔵尊があるようだが・・・工事で撤去されてしまったのだろうか。

問屋場や本陣まではあとわずかなので、この辺りはすでに池鯉鮒宿内なのだろうが、あまりその面影が残っていない。

こちらの常夜燈は明治四十一年建立。

時刻は13時45分。出発の岡崎宿でパンを2つだけ口にしただけなので、ゴール間近で気が緩んだのか、急に腹が減り、良い感じのかしわの文字にそそられる。
実は『かしわ』が鶏肉だということを、数年前まで知らなかった静岡生まれの私。調べてみると、かしわと呼ぶのは九州や西日本、そしてこの名古屋周辺らしい。

そして県道を横断し、

その先の細い道に入るのが旧東海道。
問屋場跡

進んだ先のこの場所が池鯉鮒宿の問屋場跡で、立派な石碑が建っていた。
池鯉鮒宿問屋場は、135坪の敷地面積だったそうだ。
旅籠柳屋跡

問屋場跡の先の交差点から左に見える、都築屋菓子舗がある場所が、かつて柳屋という旅籠があった場所になる。

そんな都築屋の創業も明治期とかなり歴史ある店舗なのだが、店は閉まっており、張り紙が掲げられていた。
見ると、令和八年三月を以て、創業150年の歴史に幕を閉じたとのこと。もちろん店を訪れたことのない私だが、老舗の閉店は悲しい。

旅籠柳屋の向かいの公園はかつて脇本陣があった。
永田本陣跡

池鯉鮒宿の唯一の本陣である永田本陣は、旅籠柳屋跡のとなりに位置していた。
敷地は3000坪、建坪は300坪と広大な面積を誇っていた永田本陣。
現在のメインロードは裏手の県道になるため、石碑や明治天皇行在所碑などは、そちらに設置されている。
旅の記録
ということで、今回は池鯉鮒宿の永田本陣跡の前で終了とする。
江戸日本橋から池鯉鮒宿までは約330km(寄り道だらけなので実際にはもっと歩いているが)。旧東海道は約492kmなので、これで全行程の2/3を踏破したことになる。いやー、よく歩いてきたなあ。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を確認してみよう。
- 出発日:2026年9月12日(土)
- 時 間:7時47分から14時00分(6時間13分)
- 距 離:18.62km
- 高 度:97m
- 天 気:曇り
- 気 温:24度
- 湿 度:88%
岡崎宿から池鯉鮒宿は比較的距離が長いが、さらに序盤に大きく道を外れて岡崎城に立ち寄ったため、18.62kmと今までで最長の距離を6時間13分もかけて歩いた。
腹が減ったので、名鉄知立駅前にて遅いランチにする。

地元の物を、と思い店を物色すると、イイ感じの居酒屋があった。今日はカロリーを消費したので、よーし、昼呑みといこう。

まずは駆けつけ一杯。くーっ、五臓六腑に染み渡るー!

肴は名物味噌カツ。うん、甘さ控えめコクがあり美味いので、おかわり決定!



その後もガッツリと食べまくり、


最後はお茶漬けをハイボールで流し込む。
いやー、最高だった!

酔っ払ったまま豊橋駅に着き、買い損なった池鯉鮒名物の藤田屋のあん巻きを無事購入し、

ホームに上がるとあのディズニー新幹線が登場し、長い距離を歩いた後、最後に多くのご褒美をもらった素晴らしい旅となったのだった。
今回はこれで以上。次回は池鯉鮒宿から鳴海宿を目指すので、興味のある方はご覧ください。

コメント
コメント一覧 (3件)
🪷⭐⭐⭐⭐⭐🍀👏👏👏
Thanks!😊
大福様 こんにちは。
27曲がりとはたいしたものですね。日光のいろは坂は上り下りあわせて四十八曲がりあるそうですが・・・。いろは四十八文字な~んちゃって。
旧岡崎銀行、立派な建物ですね。今時こんな重厚で美しい建物なんか建てられることはないですものね。機能美優先だからでしょう。大切に後世に伝えていって欲しいものです。
それにしても二十七曲がりとは大変。右へ行ったり左に行ったりと・・・。まるでクイズの迷路みたい。アジア大会の聖火リレーに遭遇とはいい思い出になることでしょう。岡崎城、さすがです。美しいし風格があるように思えます。家康誕生の時の逸話は金龍ですか。豊臣秀吉は母親の身体にお日さまが入ってきた?そうで、日吉丸と名付けられたとか・・・。いい勝負みたい。
愛知環状鉄道の高架橋をくぐると、本当に雰囲気が変わるのですね。タイムスリップしたみたい。全国的に名高い八丁味噌蔵、たいしたものです。宮崎あおいさんと握手出来てよかったですね。私は以前兵庫県の湯村温泉に行ったとき、夢千代日記に主演された吉永小百合さんの手形にタッチしたことがあります。一時代、いや二時代以上昔の話ですね。昭和は遠くなりにけりです。(^_^;) いやいや「おっさんキモッ!」ではなく、夢見るロマンチックおっさんでしょう。私はは未だに夢見るじじいです。(^-^*)
秀吉、家康ともに矢作川で最初の接点があるのも面白い・・・。
徳川信康の自刃は本当に悲劇ですね。名前が信長の信と家康の康、次男の秀康は秀吉の秀と家康の康。彼は本家を継ぐことが出来ず、結城家を継ぎ、結局三男の秀忠が二代将軍になります。名前に二人の権力者の字が入っていると、余りよくないのかなと思ってしまいます。徳川家も内部事情はいろいろ複雑なものがあったのでしょう。
大友皇子御陵遺跡があるのですか。判官贔屓じゃないけれど、叔父・大海人皇子に敗れたときの気持ちはどうだったのでしょうね。若くして亡くなられただけに、ちょっと辛いものがあります。まあ、当時の権力抗争は、大友皇子だけに限らず、たくさんあって、見方によっては、それぞれが悲劇と言えるものなのかも知れません。権力を保とうとする側から見れば必然的なことなのかも知れませんが・・・。
尾崎の松並木を見ると、街道っていう感じが戻ってきますね。
内外神明社、一ノ鳥居から見ると、奥にある二ノ鳥居の付近の様子は想像出来ませんね。路地を通って行くと立派な神社が・・・といった感じ。昔は田んぼの中の一本道だったのでしょうか。
雲龍松、立派ですね。こういった横へ横へと伸ばして育てられている松、時々見ます。近所のお寺にも「しぐれ松」という天然記念物の古い松の木があったのですが、松食い虫にやられてひとまわり小さくなってしまいました。この松は運がいいのだと思います。
大きなマキの木、すごいですね。これだけ大きいと手入れも大変でしょうね。(^_^;)
豊臣機工って、もしかしてストーブなどを作っている会社ですか?
来迎寺の一里塚、こんなにきっちりと手入れをされて保存しているのは地域の方々の思い入れといったものがあるのでしょうか。東海道の一里塚って、結構大きな塚だったんですね! 見返り美人じゃなくて見返り弘法ですか。色っぽさには欠けるようですが。(^_^;)お地蔵様が工事で撤去されるというのはほぼないと思います。一時的の他所へ移してあるとかるようですが、新しい場所に移動してもらうとかで・・・。近所の道路工事で4カ所ほどそんなところを見たのですが、ちゃんと新しい祠の中に収まっていました。お地蔵様って、その地域にはなくてはならないものか、はたまた粗末に扱うと罰が当たるとか、な~んてことがあるのかも知れませんよ
カシワと言う言葉、そういえばそうですね。カシワと言っているのは西日本だとか。昔々、同僚に関東出身者がいてそのことを聞かれたことがあります。先輩が猪肉をボタン、馬の肉をサクラ、鹿肉をモミジと言い換えたのとおなじで、殺生を嫌ったからかな~と言っていました。それでこのように言い換えて罪悪感から逃れて食べていたりして・・・(^_^;)
要するに生々しさを避けて、優雅に表現したのかも・・・(これは私の想像です)
老舗が次々と消えていくのは時代の流れかなと思います。私の住んでいる町は、昔は高野山参りの人々で賑わっていたのですが、もうその面影は残っていません。計画的に町並みを残していれば面白かったと思うのですが、そんな余力なんて地方にはなかなかありませんものね。たまに残っている古い町並みは、今はとても人気がありますが、そこに住んでいる方々は、とても不便じゃあないのかなと思っています。新旧同居は難しいことなのかもです。
まだまだ先は長い道中ですが、お気を付けて・・・。