今回は旧東海道踏破の旅の続き。
昨年末に神奈川県を出て、東西に長い静岡県を歩いてきたが、今回はついに愛知県に入る。
また、ライカM11に装着するレンズは前回同様に68年前の元祖赤ズマロンを使用しているので、オールドレンズ特有の懐かしい写真もお楽しみください。

では、前回のゴール地点である白須賀宿脇本陣から出発進行!
カメラ:LEICA M11
レンズ:LEITZ SUMMARON F5.6/2.8cm
火防樹の槙

民家の庭に植るこのマキの木は、火防樹の槙と呼ばれている。
前回も書いた通り、白須賀宿は津波の影響で潮見坂の上に移転したが、ここは冬に遠州の空っ風と呼ばれる西風が強く吹くため、火災が大火になってしまうことが多かった。
そこで、大火になることを食い止めるために火に強いマキの木、火防樹の槙を植えたそうだ。
庚申堂跡

変わった鳥居が目を引くこちらには、遠江三河で最大の庚申堂があったそうだが、最近取り壊されてしまった。天保十二年(1841年)建立と長い歴史を持つ庚申堂だったが、晩年はかなり疲れ果てていたようだ。


境内には、見ざる言わざる聞かざるのちょっとリアルなお猿さんが残されていた。

この辺りは明治初期に主要道から外れたため、古い民家が残っていて良い雰囲気だ。
午前中に潮見坂を頑張って上ったので、緩い下り坂が嬉しい。

ここの地名は境宿というらしく、名前の通りまもなく遠州國から三河國になる。現在でいうところの静岡県と愛知県の県境が近い。

ということで、箱根宿を出て静岡県に入ってからずっと私を案内してくれた『夢舞台東海道』の道標も、これが最後になる。

ここで一旦県道に合流し、

すぐに脇道へ。

そしてふたたび県道へ合流。県道をそのまま歩いてもほぼ旧東海道なのだが、なるべく往時の道を歩くのが今回の旅のこだわりだ。
うん?香ばしい牛の匂いがする・・・。
愛知県へ

県道を歩くとすぐに看板が見えてきた・・・SUZUKI 湖西工場1.6km?いやいや、その先!

ついに愛知県の看板だ!
この境橋を渡ると愛知県に入ることになる。
思えば静岡県に入ったのが冬真っ盛りの昨年の暮れ。あれから半年以上経って、横に果てしなく長い静岡県をやっと横断する。
もちろんずっと歩いてきたわけではなく、週末のみで時に1ヶ月も空くゆる〜い歩き旅だが、それでも地元静岡を自分の足で横断したことにかわりなく感慨深い。
では境川を渡って愛知県に行ってみよう。

右足が静岡県、左足が愛知県という、定番のやつをどうしてもやりたくなってしった・・・わかるでしょ??
県境は大きな川や高い山の稜線にあるものだと思っていたが、意外にも細く頼りない境川に驚く。

では、愛知県、お邪魔しまーす!

愛知県に入るとすぐに仏様がお出迎え・・・というか、地蔵尊ではなく超リアルな仏様だったので、人間がじっとこちらを見ているのかと思い驚いた。
御堂もなく雨ざらしの中でポツンとしている姿がちょっとかわいそう。何故ここに??

その仏様の先の信号手前を右折して、

すぐに国道1号線に合流する。

時刻は12時を過ぎて腹が減ってきたが、この辺りには飲食店が無いようなので、県境を越えて最初の現代版茶屋でおむすびとパピーを買い、静岡県踏破のささやかなお祝いを・・・うん?また香ばしいぞ!?この辺りは牛が多いらしい・・・。
細谷の一里塚

コンビニを出発してすぐの右側に、木が覆い茂るこの場所。これが現存する細谷の一里塚の北塚になる。
造られてから400年以上が経過して完全に地形に馴染んでいるため、私はただの林だと思い通り過ぎてしまったため、写真は進行方向と逆。

木々の隙間から塚の頂上を見ようと思ったが全然ダメ。せっかく残しているのだから、整備すれば観光スポットになるのに勿体無い。

塚には秋葉神社や津島神社、地蔵尊が祀られており、完全に神格化されているようだ。
江戸日本橋から七十一里(約284km)。

細谷の一里塚を過ぎると見どころが何もなく、国道1号線の歩道をトボトボ歩く。

みんな大好きオービス。私は時速4km/hなので問題なし。

バスは遠鉄から豊鉄になり、愛知県にいることを実感する。

たまには歩道橋の上から。
へ?何枚もくだらん写真ばかり見せるなって?どうでもいいものを写しているのは、みなさんに歩いていることを証明するため。。。

見どころなく3km以上トボトボただ歩いたが、下っているので歩きやすいことだけは良かった。そんな下り坂も三弥町の歩道橋まで。

そして東海道新幹線の脇を歩き、

この二川ガード南の交差点で国1地獄は終わり、右の新幹線ガードをくぐる。

梅田川に架かる筋違橋(なんちゅー名前だ!)を渡り、

東海道本線の踏切を渡り、渡った先を左へ進む。
二川宿東見附跡

この場所が、日本橋から数えて三十三番目の宿場である二川宿の江戸口になる。
二川宿は現在の二川駅辺りにあった二川村と、源吾坂辺り(先ほど東海道新幹線と並走した辺り)にあった大岩村を一ヶ所にして、政保元年(1644年)に成立したそうだ。
では、二川宿に入っていこう。
二川の一里塚跡と川口屋

東見附からすぐの場所にあったのが二川の一里塚。現在は標石のみが建っている。
江戸日本橋から七十二里目(約288km)。

その一里塚のとなりには川口屋という商家があり、現在は二川宿の案内所になっている。

現在の道路のようなまっすぐではなく、古い民家の前を細い道幅が緩く左右にブレる線形が、往時の雰囲気をよく残している。


そして、妙泉寺、二川八幡神社と寺社が続く感じも良く、江戸時代にタイムスリップした感じを受ける。
だが、まだ序章。二川宿は最後に素晴らしい木造建築を見せてくれることに。
東枡形跡

ここで道がクランク状になるが、これが二川宿の東枡形跡。
そんな枡形の右側にいかにも歴史のある木造家屋が軒を連ねている。
東駒屋

これがその木造家屋。東駒屋という江戸時代から味噌やたまり醤油を作る商家で、現在でも赤味噌を製造販売しているそうだ。
道路がアスファルトでなく土道ならば、完全にタイムスリップしたかのようなこの建物は、当然ながら豊橋市指定有形文化財になっている。
尚、一番奥ののぼり旗を掲げるのは駒屋といい、東駒屋はその分家にあたる。
駒屋奥には主屋、土蔵など八棟の建物からなる江戸時代の建造物があり、往時の商家の一般的な形式を色濃く残しているようだが、訪れたときは観覧できるとは知らず少々心残りだ。
もちろんこちらも豊橋市指定有形文化財になる。
東問屋場跡

東枡形の先には東問屋場の跡だったことを示す標石が建っていた。この先の西問屋場と半月交代で務めていた。


二川宿の街道に建つ民家の軒先には、木札で屋号と往時の職種が掲げられているが、そのほとんどが旅籠屋。調べてみると江戸時代には三十軒ほどの旅籠屋が街道に店を構えていたそうだ。
二川宿脇本陣跡

現在は民家になっているこの場所は、代々松坂家が務めたという二川宿の脇本陣跡。
元々この場所には後藤家・紅林家の本陣がったが、文化四年(1807年)に本陣が馬場家に移った際に、街道の南側にあった脇本陣がここに移動したそうだ。
脇本陣の建物は間口七間(約13m)、奥行十九間(約30m)、畳数九十三畳だった。
旅籠清明屋

そして脇本陣の先に驚くような木造建築が姿を現し、思わず「なんだ??」と声を上げてしまった。
こちらは旅籠清明屋で、その奥に連なるように立地するのが二川宿本陣になる。
まずは旅籠清明屋から見ていこう。

こちらの建物は文化十四年(1817年)に建てられたものを改修復元工事をして、平成十七年に一般公開されたそうだ。
そんな清明屋は江戸時代後期から明治時代まで営まれていた旅籠屋だが、街道から中を拝見すると、旅籠宿なのにかなり豪華な造りになっている。
それもそのはず。本陣のとなりに位置していたため、大名が本陣に宿泊する際には家老などの上級武士の宿泊所として利用されたそうだ。

おっ、人がいる。見物人か?と思ったが、よくできた人形だった。ほんの160年余り前までは、丁髷姿の旅人が一服していた光景が日常だったのだと思うと、不思議でならない。
二川宿本陣

そして旅籠清明屋のとなりに建つこちらが二川宿本陣になる。
前述の通り、文化四年(1807年)から明治三年まで本陣職を務めたのが馬場家で、こちらの建物は昭和六十年にその馬場家から寄贈を受け、昭和六十三年から三年をかけて江戸末期の姿に復元されたそうだ。

表門には定紋入りの幔幕を張り、その奥には高張提灯が掲げられている。

建屋内もご覧の通り忠実に復元されており、私は旧東海道から覗き見ただけだったが、この雰囲気がずっと奥まで広がっている。
いやー、江戸日本橋から多くの宿場を巡ってきたが、本陣がこんなにもリアルに復元されていることはなかった。

本陣の奥には資料館もあり、敷地内は歴史好きが楽しめる施設になっている。
西駒屋

その二川本陣の向かいに立地する木造商家が西駒屋になる。
東駒屋同様に先ほど見た駒屋の分家になり、明治四十三年ごろから味噌や醤油の醸造業を営んでいて、この主屋と土蔵はその頃に建てられたそうだ。
西枡形

西駒屋の先に西枡形があり二川宿はここまで。

枡形には生麩もちが有名な中原屋があり、その前には高札場の標石が建っている。
旅の記録
今回の旅はこの二川宿の西枡形前で終了とする。
ではいつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を確認する。
- 出発日:2026年7月8日(水)
- 時 間:11時42分から14時31分(2時間49分)
- 距 離:7.78km
- 高 度:45m
- 天 気:曇り
- 気 温:27度
- 湿 度:70%
白須賀宿を出発したのが11時42分で、そこから7.78kmの距離を2時間49分をかけて歩き、二川宿に到達した。
白須賀宿を出発してしばらくすると県境を越えて愛知県へ。生まれ育った横に長い静岡県を、自らの足だけで横断したのだと思うと感慨深い。
その後は見どころがなく、国道1号線を淡々と歩くのみだったが、二川宿に入ったら見どころ満載。特に二川宿本陣やとなりの清明屋は非常に見応えがあった。
ということで今回は以上。次回は豊橋市の中心に位置する吉田宿を目指すので、興味のある方はまたお付き合いください。

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コメント
コメント一覧 (2件)
大福様 こんにちは。
庚申堂、私たちの住む町にもありましたが、取り壊されました。今はそれが建っていた山の名前「庚申山」だけが残っています。庚申講は宗教的な意味合いを持つほか、地域住民の親睦行事としての意味合いもあったのでしょう。そういった行事は現在はどんどん廃れていっているので、仕方のないことかも知れません。
府県境って夢があるのでしょうね。違う県に入っていく時のワクワクした気持ちというのでしょうか。孫達もいつも通る和歌山と大阪の府県境、和歌山と奈良の県境表示にはいつも見逃さないように目を凝らしているようです。
超リアルなお地蔵様?といえば、時々マネキンのお古を使った人形が立てられているのを目にすることがあります。これ以上ないという超リアルなもので通る度にドキッとさせられています。特に暗くなった時にはです。(^_^;)
細谷の一里塚、立派なものですね。これなら往事の人々の立派な目印になったことでしょう。
みんな大好きなオービス、最近私は対策に簡易警報器を取り付けました。簡易ですから、その付近に近づくとやみくもに警報音が鳴ってくれます。それでも運転の無聊を慰めてくれるものと思えばまあいいかと思っています。(^_^;)
筋違橋、面白い名前ですね。和歌山市には紀の川にかかる十銭橋だか一銭橋だか忘れましたが、渡り賃を名前に付けた橋があったような・・・。
街道の緩やかなカーブ、本当にいい雰囲気ですね。車には不向きかも知れませんが、歩く分には歩く人の気持ちを穏やかにしてくれるように思います。クランク状に曲がった街道、私の故郷にもあります。城下町だったので敵が攻めてきにくいようにしているんだよと孫に説明してやると、成る程と納得していました。道の持つ表情にもいろいろあって面白いですね。
赤味噌(八丁味噌)は伴侶も好んで使っています。こんなところで作られていたのですね!清明屋と本陣の並ぶ風景、素敵ですね。まさに江戸時代にタイムスリップしたような・・・。たいしたものです。これからもずっと残しておいてもらいたい風景ですね。
今回もありがとうございました。このところの連日の猛暑、気をつけて旅をお続けなさいますように。
asamoyosiさん、こんにちは。
無知な私は、庚申堂について、この旅をするまで名前すらも知りませんでしたが、旧東海道を歩く度に道端に祀られていて、今では旅の楽しみの一つになっています。asamoyosiさんの住む町と同様に、少しずつ数を減らしているのが寂しいですね。
私は面積の広い静岡県のほぼ中央部の静岡市に在住しているので、県境を歩いて越えるのはとっても新鮮でしたが、県境近くに住む方のとっては日常ですよね。でも、わかってくれてありがとうございます。
リアルなマネキンって夜見ると怖いですよね・・・。
1里は約4kmということで、1時間ごとにある一里塚も旅の楽しみ。1時間ごとに休憩所を設置した徳川家康公はわかっているなあと思います。
二川宿は往時の雰囲気を残るとってもいい宿場でした。特に清明屋と本陣は最高で、ふたたび訪れてじっくりと観覧してみたいと思います。
今回も興味深いコメントを書いていただきありがとうございました。いつも楽しみにしています。