大福のブログ

ライカを持って旧東海道を歩く【第25回】(金谷宿→日坂宿)

今回も旧東海道踏破の旅の続き。今回は金谷宿から日坂宿を目指す。

金谷宿を出るとすぐに東海道の難所と謳われた小夜の中山峠が控えていて、非常に厳しい坂が続く有名な区間になるが、箱根越えを経験したので大丈夫だろう。

では、前回の柏屋本陣があった場所から、ライカM11をぶら下げて、いざ、出発!

目次

角屋脇本陣跡

柏屋本陣を出発するとすぐの民家の前に説明看板がある。ここは角屋脇本陣があった場所。

金谷宿の脇本陣は二軒あり、その一つが金原三郎右衛門が務めた角屋。河庄屋も兼ねていた。

“たばこのお店”(ここも角屋脇本陣だろう)のロゴがなんか好き。

一年半ほど前にお得意さんと訪れたあさひ寿しは、フグ料理を安価で楽しめる店。

大将と女将の人柄も最高で、ぜひまた来たい。

定飛脚問屋(三度屋)跡

あさひ寿しのすぐ先に説明看板がある。

ここは定飛脚問屋があった場所。

定飛脚とは江戸と上方の京、大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月に三度出したことから三度飛脚屋と言い、この飛脚が被った笠を三度笠と呼んだ。

民間の飛脚なのでヤマト運輸の宅急便?いや、飛脚なので佐川急便の飛脚便か??

金谷の一里塚

東海道本線と大井川本線が乗り入れる金谷駅が見えてきたが、その脇にあったのが金谷の一里塚になる。

現在、一里塚があったことを示すのはこの消えかけた案内板のみ。

江戸日本橋から五十三里目(約212km)になる。

旧東海道は金谷の一里塚の看板がある場所を左折して東海道本線と大井川本線をくぐり、

突き当たりを右折する。正面に見えるのは長光寺。

写真ではわかりづらいか、この辺りから上り坂がキツくなってきた。金谷坂の始まりだ。

西入口土橋(金谷宿京口)

この不動橋は、江戸時代に西入口土橋と呼ばれた金谷宿の京口。

橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土をつき固めた土橋は、長さ六間(約10m)横幅二間半(約4.5m)だった。

西入口土橋を渡り坂を上り、

その先にある道祖神は宿口の守護神だった。

ちなみに、道路の角度から坂の急な感じが伝わると思う。

突き当たりを右に曲がり、

鋭角に曲がり、一旦国道に出る。

すぐに横断歩道があるので国道を渡り、そのまま先に進む。

金谷坂の石畳

旧東海道石畳入口・・・箱根路以来の石畳。私にとって辛い思い出しかない。

そして石垣を見ながら上って行くと、

ついに石畳が現れた・・・。

歩いてみると箱根路の石畳に比べて若干歩きやすい。

よく見ると石はコンクリートで固められており、表面は箱根よりも平滑なので、石の間に靴がはまりにくいのだろう。

石畳は江戸幕府が命じ、金谷坂の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものだった。

近年、わずか30mを残してそれ以外はコンクリートで舗装されていたが、平成三年に、町民約六百人の参加を得て実施された平成の道普請で、延長430mが復元されたそうだ。

現在、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのは、ここ金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所だけとなっている。

歩くのには辛い石畳だが、これも良い思い出になるはず。じっくり味わいながら上って行くことにしよう。

仁誉地蔵尊

石畳の序盤に仁誉地蔵尊が安置されていた。

お顔を見て坂に戻ろうとしたが、

もう一体の地蔵尊が笑顔でこちらを見ていたので、その奥も見学する。

奥には庚申堂があったので、こちらにも挨拶をする。

すべらず地蔵尊

しばらく石畳を上るとすべらず地蔵尊の鮮やかなのぼり旗がある。

平成三年の石畳復元の際に、すべらないように祈願したという地蔵尊が祀られていた。

そして傍には合格祈願の絵馬が奉納されていた。

受験戦争真っ盛りのころに完成したすべらず地蔵なので、こちらも狙ったのかと穿った見方をしてしまうバチ当たりな私・・・。

すべらず地蔵尊から少し歩くと延長430mの金谷坂石畳は終了し、舗装路に合流する。

左には昭和天皇が金谷原茶園開墾地を上覧したことを記念して建てられた、明治天皇御駐輦阯碑がある。

牧之原は静岡県でも有数の茶の産地ということで、新たなお茶の木が植えられていた。

諏訪原城跡

その先に諏訪原城跡の看板がある。諏訪原城は武田勝頼の家臣だった馬場美濃守氏勝が築いた山城。

旧東海道沿いに紹介するビジターセンターがあったので、休憩がてら少し覗いてみると、ジオラマやパネルなどで、在りし日の諏訪原城を紹介していた。

徳川軍の攻めにより落城したそうだが、記憶では職を失った徳川の幕臣たちも、この牧之原の地を開墾したかと。なんだか妙な巡り合わせだ。

金谷坂で汗をかいたので、ビジターセンターでコーヒーを買い(お茶じゃないの?というツッコミはご遠慮を・・・)、ついでに身を軽くして出発。

菊川坂

その先の県道を横断して、

菊川坂と呼ばれる石畳に入る。

余談だが、この南側に菊川市という地名があるが、この辺りは島田市(旧金谷町)菊川という地名らしい。知らなかった。

遠くに見える栗ケ岳の山肌には『茶』の文字が見えるが、あれはお茶の木ではなくヒノキという有名なオチ。

菊川坂は先ほどの金谷坂と同様に整然と石が並べられていて、

よく見ると隙間をコンクリートで固めており、復元された石畳だということがわかった。

しかしこの看板の先からは江戸時代からの石畳になる。

こちらがその江戸時代からの本来の石畳。先ほどの復元区間とは違い、やや雑然の敷き詰められているのがわかる。

石畳が歯抜けになってきたのでここで終わりかと思ったが、舗装路にでず、この場所を右に曲がるのが旧東海道になる。

今、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのは箱根峠、中山道十曲峠とここ菊川坂や金谷坂を含む小夜の中山峠のみで、この後の京三条大橋まではないので、じっくりと味わいながら丁寧に足を運びます。

そして最後はこの急坂を下り、

ここで江戸時代の石畳は終了。菊川坂のオリジナル石畳の区間は161mだった。

舗装路に合流し真っ直ぐに進み、この交差点を斜め右方向に向かう。

街道には青銅製の秋葉山常夜燈が安置されている鞘堂があった。

菊川間の宿

その先には『昔をしのぶ 間の宿 菊川』と題した壁画。この辺りは菊川の間の宿があったらしい。

通常、間の宿は宿場間の距離が三里から四里(約12-16km)に及ぶ際に置かれるが、金谷宿と日坂宿の間は一里二十四町。ただここは難所が続くため、特別に間の宿が設けられたそうだ。

間の宿では旅人の宿泊が厳禁とされていて、本格的な料理の提供も禁止されていた。そこで生まれたのが菜飯田楽だったそうだ。

ということで、私もこの間の宿菊川の里会館で一服して、この先の小夜の中山峠に臨むとする。

菊川間の宿を出てすぐの四郡橋の渡詰めを左折する。

四郡橋の名の由来はおそらく四つの郡の境だったからだろう。そこにあった標石にその郡の名が刻まれていた。

榛原郡はまだあるが、その他の三つの郡の名前は知らない。ごてんばあさんのCM(←静岡県民のおじさんおばさんならばわかる)にも出てこなかったし・・・。

調べてみたところ、城東郡、山名郡、佐野郡はともに明治二十九年に廃止されているらしい。そりゃ知らんわ。。。

四郡標石の先の横断歩道を渡り、その先の階段を上がる。

そして新設された国道473号線の下をくぐり、

ガードを抜けたら左の階段を上がり、

斜め右方向に進む。

すると立ち入り禁止の柵??いや、先の道路には車が通っている・・・こっち??入り口には柵がなかったのだが・・・。

ということで、この柵の隙間から出て、右へ進む。

この坂、とんでもなくキツいんだが・・・。

50ccのスクーターが唸りを上げながらゆっくりと抜いた・・・なんだ?この坂は。

実はこの坂こそが、小夜の中山峠最大の急坂として旅人に恐れられた青木坂になる。

急坂はなかなか終わらない。今までの坂を思い起こすと薩埵峠も急坂があったが距離は短かった。箱根峠の橿木坂も厳しかったが階段になっていた。

そして小夜の中山峠の青木坂というと、階段ではない急坂が長く続く今までにない坂だった。

毎朝ランニングで鍛えている私だが、途中から太ももがプルプルと痙攣を始め、時より後ろ向きになって進むことに。いやー、ここまで厳しい坂だとは知らなかった・・・。

何百mほど進んだのか、この辺りで坂はやっと緩やかになり青木坂が終わった。いやー、しんどかった!

その後は静岡らしい茶畑の中を緩やかに登るも、向こうに坂道がまた・・・。

青木坂ほどでは無かったが、それでもきつい坂を登るとやっと頂上に達し、今回の旅一番の目的地に到着する。

久延寺

小夜の中山峠の頂上に君臨する、この立派な山門のお寺が久延寺になる。

掛川城主の山内一豊が、会津の上杉攻めに向かう途中の徳川家康公をここで接待したという久延寺だが、それ以上に有名なのが夜泣き石伝説。

本堂の横に大切に祀られているこの石が夜泣き石になる。

石の傍に、夜泣き石伝説の説明があり、以下の説明が書いてあった。

小夜の中山に住むお石という女性が、菊川の里へ働きに行って帰り道の丸石の松の根でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ轟業右衛門というものが通りかかり介抱したが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪って逃げた。

お石は懐妊していて傷口から子供が産まれ、お石の魂が側にあった丸石に乗り移り夜毎に泣き、その石を夜泣き石と言った。

傷口から生まれた子供は、この久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者になり、刃研師の弟子になった。

ある日轟業右衛門が刃研にきた時に刃こぼれがあるので聞いたところ、住数年前に小夜の中山で妊婦を切り捨てた時に石にあたったと言ったので、母の仇とわかり、恨みをはらしそうだ。

扇屋

久延寺のとなりに、宝永年間(1704-1711年)創業の扇屋という店がある。

ここでは久延寺の和尚がお石の子供を育てた際に与えていたという、名物子育飴を販売している。

ということで、私も購入してその後の道中で口に含んでいたが、とっても美味しかった。

店主の女性は非常に気さくで、ここ小夜の中山のことをたくさん教えてくれた。

佐夜鹿の一里塚跡

扇屋から200mほど歩くと標柱がある。

ここが佐夜鹿の一里塚(小夜の中山の一里塚)跡。江戸日本橋から五十六里(約224km)になる。

そういえば、金谷の一里塚が五十三里で、一里(約4km)ほどしか進んでいないが、ここが五十六里??

どうやら五十四里と五十五里の一里塚は築造の記録がないようだ。うーん、どうしてこうなった??

そして茶畑の中を進み、

佐夜鹿神明神社の鳥居を左に見る。

鎧塚

そして左の階段を上っていくと、

鎧塚と刻まれた碑がある。

この場所は健武二年(1335年)に北条時行の一族名越太郎邦時が今川頼国と戦い、壮絶な討死をした場所らしい。

その後は農道のような道を進む。

道の傍には江戸時代の俳諧師の、小夜の中山峠を題材とした俳句を紹介した碑が続く。

白山神社を右手に見ながらさらに進む。

夜泣石跡

このコンテナの向こう側に、

夜泣石跡と刻まれた標石がある。

夜泣石は先程訪れた久延寺の境内にあったはずなのだが・・・。

実は妊婦のお石の霊魂が移り泣いたという石は、明治元年までこの道の中央にあったそうだが、明治天皇御東幸の折に道脇に寄せられた。

その後、明治初年に東京で開催された博覧会で出品され、戻された際に久延寺に移されたそうだ。

夜泣石跡の碑を過ぎると、高く伸びた松の木があり、

そこから急な下り坂になる。

この辺りは七曲という特に急な場所。日坂宿から来たご夫婦が息も絶え絶え上ってきたのが印象的だった。

青木坂も厳しい登りだったが、こちらも負けずとも劣らない相当な急坂で、下りで良かったと深く思った。

次第に車の音が大きくなり、国道1号線の日坂バイパスが見えてくる。

そして歌川広重の日坂宿の浮世絵が見えたらゴールはもうすぐ。

バイパスをくぐり、

県道を渡ると日坂宿通りに入る(左側に歩道橋あり)。

秋葉山常夜燈を見ながら進むと公園が見えてきた。ここが今回のゴールになる。

扇屋本陣跡

現在公園になっているこの広大な敷地が、江戸時代、日坂宿の唯一の本陣だった扇屋本陣の場所。片岡家が勤めたそうだ。

公園の入り口にあるこの門は、なんと当時モノの本陣門。江戸からここまで歩いてきたが、本陣門を残していたのは保土ヶ谷宿とここだけだったかと記憶しているが、保土ヶ谷宿の本陣門は保存状態がイマイチだった。が、日坂宿の本陣門はしっかりとメンテナンスされており、見応え抜群だ。

いやー、よくぞ残っていてくれた!

歩みの記録

扇屋本陣跡で公園で一服。今回は終了とする。

金谷宿から日坂宿までは小夜の中山峠がとにかく厳しかった。江戸日本橋からここまでの行程では、箱根峠に次ぐ厳しい急坂だったと個人的には思う。

ただ、石畳や夜泣石など見どころも多く、春ののどかな山道から見える景色も最高で、また名物子育飴も美味しかったので、ハイキングコースとしてはかなりお勧めしたい。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータから、旅の記録を確認する。

  • 出発日:2026年4月19日(日)
  • 時 間:9時31分から12時30分(2時間59分)
  • 距 離:7.40km
  • 高 度:313m
  • 天 気:晴れ
  • 気 温:19度
  • 湿 度:64%

一里二十四町宿と言われた金谷宿と日坂宿を約3時間かけて歩き、距離は7.4kmだった。

上がった高度は313mとあるが、この区間は金谷坂を上がり菊川坂で一度里に下り、今度は青木坂から上がり久延寺の先からまた下った。要するに二度山を越えたので数値以上に厳しかった。

ということで、今回は以上。次回はここ日坂宿から掛川宿を歩いたので、興味のある方はお付き合いを。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 大福様 小夜の中山峠超え、お疲れ様でした。聞きしに勝る難所のようですね。句碑がたくさん建てられていることからも、そのことが偲ばれます。すべらず地蔵尊というのも面白い。今風の願いにマッチするように作られたのでしょうか。写真では分かりにくいのですが、青木坂のバイクを使っての説明でよく分かりました。夜泣き石のお話、怖いですね。母の仇を討ったと言うのであれば、めでたし、めでたしとなると思うのですが、そうは思えないところが何ともはや⋯。その夜泣き石が博覧会に出品されたというのも、ちょっと理解しにくいような⋯。何はともあれ、最大の難関踏破、おめでとうございます。㊗️🥳

  • asamoyosiさん、こんばんは。

    小夜の中山峠、特に青木坂は厳しい急坂でしたが、なんとか登ることができました。次の難所は鈴鹿峠らしいので、これでしばらくは比較的楽に旅を進められるかと。ちょっと安心です。

    たしかに夜泣石が博覧会に出品されるとは、今の時代の感覚だと理解し難いですよね。

    新しいサイトに変更になり、asamoyosiさんが見てくれるか心配でしたが、無事コメントをくださり安心。いつもありがとうございます!

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