私大福がライカを持って旧街道を歩くサイト。現在は旧東海道を歩いており、江戸日本橋から33番目の宿場である二川宿に到着しました。今年中には旧東海道を制覇したいと目論んでいますが、夏の暑さに負け気味・・・。気力を振り絞り、ゴールの京三条大橋まで200kmとちょっとの道のりを歩き通したいと思いますので、みなさん応援お願いします!

ライカを持って旧東海道を歩く【第35回】地名の由来豊橋を渡り大社神社の夏祭り浴衣姿彩る旧街道(吉田宿→御油宿)

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今回も旧東海道踏破の旅の続き。

盆休み最初の日、暑さ対策のために朝5時半に二川宿を出発して朝8時前に吉田宿に到着し、今回はここ吉田宿から御油宿を目指す。

では、吉田宿の中心に位置する清須屋与右衛門本陣跡の前から、今日もライカM11をぶら下げて、しゅっぱーつ!

カメラ:LEICA M11
レンズ:LEICA SUMMARON-M f5.6/28mm

目次

吉田宿脇本陣跡

清須屋与右衛門本陣の筋向いにあったのが、桝屋鈴木圧七郎が務めたという吉田宿唯一の脇本陣。

現在は石碑が設置してあり、跡地は駐車場になっていた。

静岡県では『夢舞台東海道』と書かれた道標が旧東海道の統一の目印だったが、愛知県に入ってからはこの道路標識が目印になる。

きく宗

文化年間(1804年-1818年)創業のきく宗は、細かく刻んだ大根の葉を混ぜたご飯と、串に刺して香ばしく焼いた豆腐に味噌を塗った料理、菜飯田楽の老舗。

きく宗から100mほど進んだ先のこの交差点を右折する。

そして大きな交差点を渡るのだが、その先に前回も見た門が見えてきた。

西惣門

こちらは吉田城下の京口、西惣門。前回紹介した東惣門と同様に縮小復元門になる。

この復元門は、延宝二年(1674年)に湖西市の本興寺に移築された、吉田城大手門を参考に造られたそうだ。

西惣門の交差点から100mほど進み、この交差点を左折するのが旧東海道。

湊神明社と湊築島弁天社

すると左手に鎮座するのが、なんと白鳳時代(645年-710年)に創建されたと伝わる湊神明社。大化の改新の時代!?ホンマ??

茶人の山田宗徧が湊神明社の右手にある池の中央に庭園として蓬莱之島を造り、天和三年(1683年)、庄屋が蓬莱之島にこの湊築島弁天社を建立した。

湊神明社を出たらすぐの船町の交差点を右折すると、

大きな橋が見えてきた。

豊橋

こちらが豊橋市の地名の元となった豊橋(写真は渡り詰を進行方向逆を向いて撮影)。

元亀元年(1570年)に土橋の吉田大橋が架かり、その後、土橋を廃してその下流側に東海道屈指の大橋である木の橋が完成し、明治時代に架け替えられた際に名称を豊橋に変更したそうだ。

昭和三十四年、上流に完成した橋で吉田大橋の名称が復活した。

旧東海道は豊橋の渡り詰を左折する。

そして豊川稲荷遥拝所碑と、

聖眼寺を右手に見ながら進む。

下地の一里塚跡

吉田宿を出て最初にある一里塚が下地の一里塚。塚は現存しておらず、斜めになった石碑のみがポツンと建っていた。

江戸日本橋から七十四里(約286km)。

ヤマサン

旧東海道はヤマサンの看板先で道幅が狭くなる。

そんなヤマサンは、大豆や米穀などの穀物を中心に業務用食材や関連資材を販売する会社で、創業は元禄十六年(1703年)。往時は菜種油の搾油業を行っていた。

こちらはヤマサンの旧事務所。20年ほど前に事務所を移転したが、古いものは残さなければ、ということで素晴らしい保存状態で残っている。

ヤマサン本社辺りの街道は、線形が左右にブレて古い民家もあり、旧東海道の雰囲気が残っていて良い感じ。

さて、心配していた気温は少しずつ上がってきた。ダブル台風が日本に近いているらいしが、まだ風はなくも蒸し暑い。

瓜郷遺跡

ヤマサンから少し歩くと、史跡の境を示す史跡境界の標石がある。

どうやらこの先が、弥生中期から後期の大きな村、瓜郷遺跡があった場所らしい。

興味はあるが、見慣れた登呂遺跡とさほど変わらないのだろうと勝手に思い、今回はスルー。

そして豊川放水路の手前で豊橋市を後にして豊川市に入る。

豊川放水路に架かる高橋は車が多くの多く通るが歩道がなく、私の脇を掠めて行った(写真に写る車両ではない)。注意が必要な場所になる。

橋を渡り、子だが橋の碑を右に見ながら進み、

高架橋が建設されている大きな交差点を横断すると、次の目的地がある。

菟足神社

こちらは創建が白鳳十五年(686年)という古社菟足神社の鳥居。

神紋が兎であることから、奥にある社殿や境内の至る所に約50羽もの隠れ兎などが存在しているらしいのだが、長い距離を歩きすでに疲れ気味なので、探す元気もなく、鳥居前の階段でしばしの休憩をとる。

10分ほど休憩をして菟足神社を出ると、すぐにJR東海飯田線の小酒井踏切を渡る。

秋葉神社

旧東海道は右手の鳥居を避けて進む。

その鳥居は秋葉神社のもので、となりの秋葉山常夜燈は文化五年(1808年)に建立された。

平成三十一年発行のガイドブックによると、境内に名残りの松があると書いてあるが、すでに切り落とされてしまったようだ。

明光寺

秋葉神社から400mほど進むと、永禄三年(1560年)に開創された浄土宗の明光寺がある。

山門前には文化十五年(1818年)建立の秋葉山常夜燈があり、

境内には無数の地蔵尊が鎮座していた。

そして馬頭観音の先に、

次の目的地が見えてきた。

伊奈村立場茶屋跡

吉田宿から御油宿までは約12kmと長く、その中間地点に伊奈村立場茶屋があった。

茶屋が設けられたのは貞享四年(1687年)で、吉田藩主の小笠原壱岐守長祐が御馳走御茶屋を設置したのが始まりで、加藤家が明治時代まで勤めたそうだ。

迦具土神社

伊奈村立場茶屋跡の筋向いにある迦具土神社は、延宝八年(1680年)創建で、旧伊奈村茶屋町の氏神。

防火や鎮火の守護神として信仰されており、火伏の神ということで境内には文化六年(1809年)建立の秋葉山常夜燈があるようだ。

伊ノ奈の一里塚跡

迦具土神社の先に伊ノ奈の一里塚の石碑がある。

石碑の後ろにある山本太鼓店は慶応四年(1868年)創業の老舗。

江戸日本橋から七十五里。ここまで一里を4kmとして計算してきたので伊ノ奈の一里塚でちょうど300kmということになるが、実際には一里=3.927kmなので、約294.5kmということになる。

さあ、江戸日本橋から300kmまでもうすぐだ!

速須佐之男神社

伊ノ奈の一里塚跡のすぐ先には明和七年(1770年)創建の速須佐之男神社がある。

須佐之男(スサノオ)といえば日本神話に登場する人物の中でも特に有名で、天国で暴れすぎて姉のアマテラスに怒られて天国から追い出された神様だが、そのスサノオと関係があるのだろうか・・・。

時刻は10時を過ぎ、次第に気温が上がってきたが、空には雲がかかり日差しが多少和らいでいるので、極端に体力を奪われることはない。

そして佐奈川を渡ると次の目的地がある。

冷泉為村卿歌碑

若宮白鳥神社遥拝所の碑の横に、歌碑がある。

散り残る
花もやあると
桜村
青葉の木かげ
立ちぞやすらふ

これは江戸時代中期の公卿で歌人の冷泉為村が、延享三年(1746年)に江戸へ下る途中にここ桜町で詠んだ和歌。石碑は平成十九年に建立されたそうだ。

単純な私は涼しげな苗字のおかげで、暑さが少しだけ和らいだ気がした。冷泉さん、ありがとう。

冷泉為村卿歌碑の先は見どころがなく、白川、西古瀬川を渡り、

往時は松並木が続く小田渕縄手と呼ばれた道を淡々と歩く。

そしてこの県道を真っ直ぐに進むのが旧東海道だが、中央分離帯があり渡れないので右折する。

それにしてもこの歩道の雑草、どうにかならないものか。

ここまで旧東海道を歩いて思ったのだが、歩道の整備が疎かな箇所が多いことに気づく。また、道路標識が掠れていて読めないことも多い。

税金の無駄遣いは断固反対だが、もう少し歩行者のための整備をしてもらいたいと思うのだが・・・。

100mほど進み、この消えかけた横断歩道を渡り、渡り切ったら左折し、

100m先を右折して、

旧東海道に復帰する。

そして国道1号線が見えてるので、

横断して左に進み、

右側の細い道に進むの。

しばらく細い道を進み、

県道に合流し、

名鉄豊川線の踏切を渡り、

踏切のすぐ先を左に曲がる。ちなみに本来の旧東海道はこの先で左に弧を描くのだが、現在はそこに道はない。

200mほど進み、1本目の十字路を左に曲がり、

突き当たりを右折して、

線路を左に見ながら歩き、名鉄名古屋本線の踏切が見えてくるので左折して渡り、

国道1号線を右折するのだが、その先のために地下道を利用して国1をくぐる。

国道1号線に合流したらすぐ次の信号機があるので、その交差点を斜め左に入り、ここで往時の東海道に復帰する。

この日は通行止の看板があったが、ガードマンに聞くと歩行者はオッケーとのこと。

すると山車蔵が開いており、山車がない・・・??

そして寛政十二年(1800年)建立の秋葉山常夜燈を右手に見ながら進むと、

屋台が軒を並べ、浴衣を着た可愛らしいお客さん。なるほど、今日は縁日だったのか。

そして先ほどの山車蔵の主も発見。さて、どこのお祭りなのか・・・。

大社神社

正解はここ大社神社のお祭りだったのだ。

大社神社は三河国府の総鎮守で、徳川十四代将軍の家茂は長州征伐に際して戦勝祈願をしたという、由緒正しい神社。

国司大江定基が三河守として在任中に、三河の安泰を祈願して出雲大社より大国守命を勧請したのが始まりになるそうだ。

本日はお祭りということで、地元の方が押し寄せていたためお参りはしなかったが、境内を取り囲む白い土塀(田沼陣屋から移築)が非常に特徴的だった。

御湯の一里塚跡

大社神社のとなりにある蒲郡信用金庫の看板の横に石碑が、

この場所が御油の一里塚があった場所になる。

江戸日本橋から七十六里(298.4km)。

姫街道追分

旧東海道は写真左の道を奥に進むのだが、右から斜めに交わる道との交差点に歴史深い石碑と常夜燈がある。

この交差点こそが、見附宿から別れた姫街道の終着点になる。

分岐点から姫街道を望む。

姫街道は『入り鉄砲に出女』を厳しく取り締まった新居関所を避けて、女性が多く通った約60kmの脇街道。旧東海道踏破の旅が完結したら、ぜひ歩いてみたいと思っている。ん?男は通行不可??

若宮八幡社

御油橋を渡ると、

橋の袂にあるのが若宮八幡社。ここが御油宿の江戸口になる。

暑い最中、吉田宿から延々と歩いてきたが、やっと御油宿に辿り着いた。

御油宿は城下町の堅苦しい吉田宿を避けた旅人や姫街道を控えて大いに賑わった宿場で、特に飯盛(売春婦ね)が盛んだったそうだ。

花の実家跡

若宮八幡社の先のこの交差点を右折するのだが、

交差点の右手に説明看板がある。

ここは国際結婚の先駆けとしてドイツ人医師ベルツと結婚した女性、花の実家があった場所らしい。

花の実家跡から100mほど歩き、この交差点を左に曲がる。

ここが御油宿の中心街だった街道になる。往時は飯盛女が盛んに客引きをしていたのであろう。

御油宿本陣跡

そして鈴木半左衛門が務めた本陣があった場所に到着する。

本陣跡には長い年月で刻まれた文字が消えてしまった石碑と、説明板があった。

説明によると御油宿には本陣が元々四軒もあったようだが、うち二軒は天保四年(1833年)の火災で消失し、天保十四年(1843年)頃には二軒で、脇本陣はなく、旅籠屋は六十二軒もあったそうだ。

また、次の赤坂宿まではわずか十六町(約1.7km)しかなく、御油宿と赤坂宿で一つの宿場とした時期もあった。

旅の記録

今回はここ御油宿本陣の前までとする。

ではいつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を確認してみる。

  • 出発日:2026年8月9日(日)
  • 時 間:7時54分から11時47分(3時間53分)
  • 距 離:12.66km
  • 高 度:75m
  • 天 気:曇り
  • 気 温:27度
  • 湿 度:75%

吉田宿の本陣前を7時54分に出発し、3時間53分かけて御油宿の本陣前に11時47分に到着した。歩いた距離は12.66kmとかなり距離が長かった。

真夏だったが天気は薄曇りだったので、厳しい太陽の日差しで体力が奪われることは少なかった。

ということで今回は以上。次回はこの後に歩いたすぐとなりの赤坂宿までの道のりを書いていくので、興味のある方は下のバナーからお付き合いください。

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ライター紹介

静岡生まれ静岡育ち現在も静岡在住の50代、大福と申します。平日は会社に御奉公し、週末はライカを持って旧街道を歩いてます。

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 大福様 おはようございます。
    今回は現代的な町並みの道中のようですね。
    白鳳時代に創建されたという湊神明社、興味深い神社ですね。神明社は天照大神を祭神とするもの。もしかして伊勢神宮に先行するか同時代に建てられたとしたら、たいしたものです。
    豊川稲荷は遙拝所があるだけですか・・・。大福様が本場いなり寿司を食べられることを期待していたのですが、残念。
    ヤマサン、こちらでよく目にする醤油メーカーと思っていたのですが、違うようですね。その醤油メーカーは小豆島産でした。(^_^;) 多分どちらも商家紋として「人の下に三」とか「丸に三の字」を使っていたのでしょうか・・・。よくよくお写真を拝見してみると、これは違っていたようです。(^_^;)
    豊橋には湊神明社、菟足神社など古い神社が多いのですね。菟足神社の神紋が兎ということから因幡の白兎を思い出してしまいました。もしかして、御祭神は大国主命?
    火伏せの神様、秋葉神社は東海道沿いに沢山祀られているようですね。私の住んでいるあたりでは少ないように思うのですが、やはり地域性でしょうか。
    素戔嗚尊を祀った神社は沢山ありますね。主祭神としてではなく配祀神として祀られている神社も含めると、相当な数になると思います。人気の神様だったりして・・・。
    丁度夏祭りのシーズンだったのですね。山車が見られたのも日頃の大福様の心がけの賜物だと思います。
    姫街道、昔連れて行ってもらったことがあります。名前の通り優しい感じのする街道だったような・・・。確かではありませんが新居関の迂回路だったとか聞いたように思います。
    御油というところ、昔国道1号線を江戸まで往復したとき、通ったように思います。夜でしたので、淋しい感じがしたのですが・・・。確か広重の浮世絵で印象に残っていたのでしょうか、思っていたのと全然違う景色だと感じたことがあります。
    立秋以後、夜はエアコンの世話にならず寝ることができる日がよくあるようなってきました。とは言え、日中はまだまだ暑い日が続いています。お気をつけて旅を続けられますように。次回も楽しみにしています。

  • asamoyosiさん、こんばんは。

    湊神明社の創建が白鳳時代とは驚きでした。確かに神明社は天照大神を祭神とするもの。伊勢の神宮と同時代だったとしたら凄いことですね。

    約30年ぶりに豊川稲荷にお参りに行きたかったのですが、旧東海道よりだいぶ北にあるので断念しました。
    その豊川稲荷がいなり寿司の発祥なのですか。知りませんでした。ところで私がよく共食いする大福の発祥は??

    私もこの豊橋のヤマサンは醤油メーカーだと思っていましたが、家に帰ってブログ記事を書いているときに知りました。

    秋葉神社の本宮は浜松の天竜区なので、特に静岡県や愛知県では多いようです。多くの宿場の解説に大火のことが書かれているので、長屋が密集する東海道では火事に悩まされていたのでしょうね。

    姫街道は仰る通り出女に厳しい新居関所の迂回路です。以前浜松に住んでいたことがありましたが、現在でも主要道としてよく名前を聞きました。旧東海道を踏破したら、次に歩いてみたい街道です。

    asamoyosiさん、今回もありがとうございます。次回もコメント楽しみにしています。

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