今回は旧東海道踏破の旅の続き。
二川宿に到着したのが7月8日。その後、梅雨が明けて猛暑日が続き、歩くのを躊躇ってしまい1ヶ月以上が経過してしまった。
暑いがそろそろ歩きたい・・・日の出とともに出発すれば、暑さが凌げるかも。ということで、盆休み初日の8月9日午前4時前に静岡市の自宅を出発し、東名高速道路をかっ飛ばして三ヶ日インターチェンジを下りる。

浜名湖の湖畔を走っていると、東雲の水面が朝日で赤くなってきた。そろそろ太陽が昇る。
程なくして二川駅近くの駐車場に駐車し、前回のゴール地点まで歩く。車の温度計は25度と真夏でもまだ涼しく、Tシャツに短パンでちょうどいい。

そして本日の出発地点である二川宿の西枡形に到着。
では、今日もゆっくり歩いて行こう!
カメラ:LEICA M11
レンズ:LEICA SUMMARON-M f5.6/28mm
立場茶屋跡

出発してすぐの古い民家の軒先に、西問屋場跡の石碑があった。
問屋場とは江戸時代に宿場に置かれた、人馬の乗り継ぎや公用書状の配達などの業務を奥なう役所のことで、ここ二川宿の西問屋場は、前回紹介した東問屋場と半月交代で行っていたそうだ。

二川駅までの1kmほどの道中で、朝の散歩をするむかしのレディから、
「おはようございます。早いですねえ」
と、何度も声を掛けられテンションが上がる。早朝ウォーキングは良いものだ。
渥美奥郡道道標

二川駅のすぐ先にあるのが渥美半島にある阿志神社、伊良湖神社への道を示す渥美奥郡道道標。分岐口は東海道線設置で消滅した。

正面には本日最初のゴール地点である豊橋(吉田宿)まで一里半と刻まれいる。
豊橋という名称は明治期に入ってからだが・・・と思い、横を見ると、道標の建立は明治三十三年。なるほどね。

道標を過ぎると緩やかに上り、

信号機のある交差点を渡るとさらに上りがキツくなる。ここが火打坂と呼ばれる坂。

ただ坂は長くなく、信号機から300mほど先の信州庵の看板の前辺りで終了した。
この看板を斜め左に進むのが東海道の本来のルートだが、現在は道が無く、

その先のこの信号を左折して進み、

ここで旧東海道に合流する。

旧東海道は通れそうだが、社有地なので通行禁止。

火打坂を上ったご褒美でここからは下り。時刻はまだ6時になったばかりなので心地良く、気分晴れやかに歩く。
遠くに見えるのはこれから向かう豊橋の街並みか。
クロマツ跡

坂を下り切ると、街路樹としては珍しい松。

この辺りは江戸時代、街道の両側に松が植えられていて昭和四十年代まで残っていたが、松食い虫や道路拡張の影響で減少してしまった。
ということで、松の街路樹はその景色を再現したのだろう。

クロマツ跡碑の先で県道と合流する。

県道に入るとすぐに歩道がなく注意する箇所があるが、

信号を過ぎると道が広くなり、国道1号線と並行しているので車通りが少なく、さらに広く緩い下りなので歩きやすい。おそらくこの道はかつて国道1号線だったが、となりに新たに敷かれたのだろう。

そして国道1号線と合流するのだが、ここに次の目的地がある。
飯村の一里塚跡

国道1号線と旧道の三角地内に、国1側を向いて建っている飯村の一里塚碑は、雑草に覆われて少々可哀想だった。
豊橋市内には4つの一里塚があるが、残っているのは前回見た細谷の一里塚のみ。ここ飯村の一里塚は国道1号線の拡張工事で撤去されたのだろう。

二川宿前以来の国道1号線。もう1ヶ月も前になるが、あの時は何もない中を淡々と歩いた。やはり今回も見どころは少ないようだ。
洋服の青山、ホンダウイング、スバルと、見慣れた会社の店が目立ってきた。豊橋市街にある吉田宿は近そう。
寿泉寺

飯村の一里塚から1.7kmほど歩くと右手に立派な塔のあるお寺がある。寿泉寺だ。

変わった形の山門を抜けて、

本堂で手を合わせ、

振り返るとインパクト抜群の三重塔。どれほど前に造られたのだろうと調べてみると、へっ!?平成十五年??
築二十年あまりの最新式三重塔だった。
不動院

寿泉寺のとなりに位置する不動院は、吉田藩の重要な祈祷を担っていた祈願寺。
吉田宿を訪れるにあたり、しっかりと合掌したいと思っていたが、まだ7時、併設する幼稚園の防犯ということもあるのだろう施錠されていた。

不動院から少し歩き、東八町交差点で国道1号線は緩やかに左に曲がるのだが、旧東海道は直角に左折する。
その後すぐに右折するので歩道橋を上ると、

静岡では遥かむかしに無くなった路面電車が敷かれていた。豊橋に路面電車が走っているとは知らなかったぜ。
東惣門

そして歩道橋を下りると吉田宿の東惣門。ちょっと小さくないって?はい、もちろん縮小復元門。
江戸時代は朝六ツ(午前六時)に開門し、夜四ツ(午後十時)に閉門となった。
ここから吉田城下町の吉田宿になる。

東惣門を右手に見て進み、1本目を右折して、

すぐに左折する。

そして丁字路を右に曲がる。

豊橋の飛び出し坊やはだいぶリアルなのか?などと思いながら進むと、

大通りの中央分離帯に石碑がある。

石碑には曲尺手門跡と刻まれていて、ここにはかつて吉田城の城門があったそうだ。

曲尺手門跡の石碑の先を左折して、

丁字路を今度は右折する。府中宿や掛川宿などと同様に吉田宿も城下町ということで、防衛のために曲尺手や七曲りのような複雑な線形になっていたようだ。
吉田宿問屋場跡

丁字路から200mほど進んだ場所に問屋場の標柱がある。
吉田宿は城下町ということで大いに賑わい、幕府から人足100人、馬100匹を常備するように命じらていた。そこで吉田宿では24の町を役割ごとに分類して業務を分担していたそうだ。

問屋場の先で大きな道路には路面電車の線路があり、人生で初めて横断する。
清須屋与右衛門本陣跡

路面軌道を渡るとすぐに吉田宿本陣の道標があり、

うなぎ屋『丸よ』の軒先には立派な石碑が掲げられている。
石碑の脇にある説明板によると、ここに清須屋与右衛門本陣と東側に江戸屋新右衛門本陣という二軒の本陣があり、吉田宿の中心地として大いに賑わったそうだ。
旅の記録
ということで、二川宿-吉田宿編はここ清須屋与右衛門本陣跡で終了。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、旅の記録を確認する。
- 出発日:2026年8月9日(日)
- 時 間:5時37分から7時52分(2時間15分)
- 距 離:8.72km
- 高 度:55m
- 天 気:晴れ
- 気 温:25度
- 湿 度:86%
今回は真夏の暑さ対策で朝5時37分に二川宿を出発し、2時間15分をかけて7時52分に8.72kmの道のり歩き吉田宿に到着した。朝の光を浴びながら快適な気温で心地良く歩くことができた。
途中、火打坂があったが大した上りではなく、上昇した高度は55mと体力を奪われることはなかった。
次回はここ吉田宿から御油宿を目指す。気温はどんどん上昇していくが、昭和時代の野球部で培った時代遅れの気合と根性で歩き通す・・・なんてほどではないが、頑張って歩くので、興味のある方は下のバナーからどうぞ。
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コメント
コメント一覧 (2件)
大福様 おはようございます。残暑お見舞い申し上げます。
今回は生活感溢れる東海道といった感じですね。むかしの東海道が、すっぽり今の生活に溶け込んでいるような・・・。
「むかしのレディ」いい表現ですね。私も機会があれば使わせてもらおうかしら・・・。かく言う私は「むかしの・・・」何といえばいいのでしょう。(*^o^*)
黒松の被害、深刻でしたね。1970年頃からでしょうか。その原因がマツノザイセンチュウというカミキリ虫が媒介する線虫であることがわかったのは・・・。赤枯れした松をよく見たものです。その松の枝に最後の力を振り絞って付けたであろう沢山のマツボックリが妙に印象に残っています。今はクビアカツヤカミキリによる桜や梅、桃の枯死が大問題になっていますが、本当に日本って外来生物には弱い国なのですね。
寿泉寺の山門は確か竜宮門と言ったような・・・。当地でも時折見かけることがあります。三重塔の写真、素晴らしいですね。名機・ライカの持つ実力と、大福様の卓越した技量が合まっての作品とお見受けしました。
お寺さんが幼稚園を経営しているパターンって、時折目にします。お参りしたとき、思いもかけず元気で賑やかな声が聞こえてくると、心が和みます。
豊橋には今も路面電車が走っているのですね。懐かしい・・・。
曲尺手や丁字路、七曲りと言った道を見ると、城下町を実感し、緩やかにカーブした道を見ると街道を実感する・・・。それぞれの道の表情を見るのも楽しいものですね。
吉田宿の問屋場、人足100人、馬100頭を常駐させていたとは驚きです。要衝の地であったこと、とても栄えていたところであることが実感されます。
今回も興味深い旅日記を拝見させていただきありがとうございました。
まだまだ暑い日が続きます。お気を付けて道中されますように。
asamoyosiさん、こんばんは。
黒松被害の原因はカミキリ虫が媒介する線虫が原因なのですね。解明した現在は、対策が可能なのですか。東海道の名残り松が後世まで生きながらえてもらいたいものです。
寿泉寺の山門は竜宮門というのですか。竜宮城に行けそうな、神秘的なカタチをしています。そういえば、寿泉寺を出てから、少し歳をとったような・・・。
静岡市は私が生まれるずっと前に廃線になったので、まじまじと見るのは今回が初めてで、私にとっては新鮮に感じました。
物知りなasamoyosiさん、いつもありがとうございます!