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旧東海道・川崎宿の本陣と脇本陣|現在の姿を写真で紹介

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今回は旧東海道の本陣・脇本陣特集の第二弾、川崎宿編になる。

ちなみにシリーズ化を考えているので、タイトルに本陣・脇本陣と書いたが、川崎宿は江戸に近いために通過客ばかりで振るわない宿場だった関係か、江戸時代を通して脇本陣は置かれなかったようだ。

代わりに最盛期には本陣が三軒設置されていた。ということで、川崎宿の本陣の今の姿を紹介する。

では、いってみよー!

目次

本陣・脇本陣とは?

では、まずは本陣と脇本陣の解説から。

本陣は、江戸時代の宿場で、大名、公家、幕府役人などの身分が高い旅行者が宿泊や休息をとるための施設で、特に多くの大名が参勤交代で往来する東海道では、本陣がとても重要な存在だった。

そんな本陣は現在のホテルとは違い、地元の由緒ある家が本陣として自宅を提供していた。本陣の外観上の特徴は、門構え、大名などが出入りする玄関、庭、土蔵などがあること。要するに本陣は、宿場にある最高格式の公認宿泊施設になる。

脇本陣は、本陣を補完する施設で、大名に次ぐ身分の人物が脇本陣を利用したり、大名行列が同じ日に重なった時に身分の低い大名が脇本陣に宿泊したようだ。

また、大名、公家、幕府役人など、身分が高い人物しか泊まれない本陣に対し、脇本陣は空いていれば一般人も利用することができた。

ちなみに、天保十四年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、東海道の宿場ごとの本陣は2.09軒、脇本陣1.28軒になる。

さて、天保十四年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、今回の特集である川崎宿の本陣は二軒で、脇本陣は無しだったが、最盛期には本陣は三軒あった。では、三軒の本陣の現在の姿を解説とともにどうぞ。

川崎宿田中本陣

田中本陣は川崎宿で初めに設置された本陣。寛永五年(1628年)に仮本陣が設けられ、寛永十一年(1634年)に正式な本陣になった。

当主になったのは田中休愚という人物。”休”という字は宿屋らしいが、愚痴の”愚”を名前にするとは・・・。

そんな変わった名前の田中休愚だが、この本陣の他にも名主や問屋を兼務した人物で、さらには財政難に苦しむ川崎宿に対し、六郷川(現在の多摩川)の渡船権を得られるように幕府に働きかけて財政再建を進めたという超やり手だった。それを幕府は見逃さず、のちに幕府に登用されるまでになったそうだ。

しかし、 幕末になると利用者が減少。アメリカ駐日総領事のタウンゼント・ハリスが田中本陣の状態を見て宿泊を避け、旅籠の万年屋に宿泊したというエピソードも残っていることから、ボロ屋敷だったのかも・・・。

そして、明治元年の明治天皇東幸の際に昼食を摂ったのを最後に、長い歴史に幕を閉じた。

そんな、田中本陣の現在の姿がこちら。綺麗なマンションが建っていた。

そしてマンションの前には、田中本陣と当主を務めた田中休愚の説明があり、ここがかつて川崎宿の本陣があり、超やり手が住んでいた場所だということを示している。

現地調査日:令和七年十月十八日

川崎宿惣兵衛本陣

惣兵衛本陣は、先ほどの田中本陣の後にできた本陣。最盛期に三軒あった川崎宿の本陣の、ちょうど真ん中にあったことから、中の本陣と呼ばれていたそうだ。

向かいには問屋場が、近隣には高札場もあり、宿場の重要施設が集中するまさに川崎宿の心臓部に位置していた本陣になる。

そんな惣兵衛本陣は、江戸時代後期になると経営が厳しくなり、幕末を待たずに廃業してしまった。

そんな惣兵衛本陣の現在の姿がこちら。ラーメン壱角屋が入るこのビルの場所にあった。

そのビルの前には川崎歴史ガイドと書かれた説明板があったが、行き交う人々は誰も気にも止めずに歩いていた。

現地調査日:令和七年十月十八日

川崎宿佐藤本陣

佐藤本陣は、惣右衛門本陣や上の本陣とも呼ばれた。

上の本陣はもちろん三軒あった本陣の一番京側にあったからだが、先ほどの惣兵衛本陣と惣右衛門本陣じゃ間違えやすそう。

田中本陣のあとに惣兵衛本陣と前後して設置された佐藤本陣は、幕末の文久三年(1863年)に、徳川十四代将軍の家茂が京都へ上洛する際に利用したことが最大のエピソード。川崎宿では田中本陣が一番格上と思っていたが、アメリカ駐日総領事が田中本陣への宿泊を避けたことからも、幕末には佐藤本陣が一番上位だったのかもしれない。

佐藤家は宿制度が廃止された後も川崎に残り、明治二十三年にこの家で生まれたのが佐藤惣之助。あの阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』を作詞した、日本を代表する人物だ。六甲おろしを関西人ではなく、関東人が作詞したのは意外だが・・・。

そんな佐藤本陣の場所は現在、写真左側の川崎信用金庫になっていた。

そのかわしんの一角には、佐藤惣之助生誕の地であることを示すレリーフがあり、現代人、特に関西人にとっては佐藤本陣の跡地というよりも六甲おろしを作詞した人の生誕の地であることの方が重要かも!?

ちなみに中部人の私は、佐藤惣之助レリーフの前で行われていた、アイドルのコンサートの方に興味津々だった・・・。

現地調査日:令和七年十月十八日

今回は旧東海道・川崎宿にあった本陣の現在の姿を巡ってみた。

川崎宿には脇本陣が置かれなかった一方、最盛期には田中本陣、惣兵衛本陣、佐藤本陣の3軒の本陣が存在していた。現在はいずれも建物は残っておらず、マンションやビル、信用金庫などに姿を変えているが、説明板やレリーフによって、その場所がかつて宿場の重要な施設だったことを知ることができる。

特に田中休愚や佐藤惣之助など、本陣にまつわる人物の歴史も興味深い。何気なく通り過ぎてしまう現在の街並みの中に、江戸時代の川崎宿の姿が残されているのが面白いところだ。

次回は、神奈川宿の本陣と脇本陣の今を紹介するので、引き続きご覧ください。

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ライター紹介

静岡生まれ静岡育ち現在も静岡在住の50代、大福と申します。平日は会社に御奉公し、週末はライカを持って旧街道を歩いてます。

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