大福のブログ

ライカを持って旧東海道を歩く【第24回】(島田宿→金谷宿)

今回は旧東海道の歩き旅の続き。

二週間前に岡部宿から藤枝宿を経て、島田宿に到着し、この日は島田宿から金谷宿と日坂宿を経て掛川宿を目指す。

旧東海道の旅で初めて一日で三つの宿場を巡ることになり、途中には東海道の難所と謳われた小夜の中山峠が控えているが、果たして私の体力は持つのだろうか・・・。

その中で今回のブログ記事は最初に歩いた金谷宿まで。

ということで、いつもより少し早い7時40分に前回のゴール地点である島田宿上本陣跡にある三布袋前に到着。

では、今日もライカM11をぶら下げて、いざ出陣!

目次

明治の道標

出発して200mほど歩くと、交差点の歩道に明治の道標がある。

『東 六合村境迄 〇〇町〇〇間』『北 向〇〇迄 〇〇町〇〇間』うーん読めない。

『西 大井川渡船場迄 五町四一間』と刻まれてる?

大井神社

明治の道標のすぐ先に、島田宿の鎮守だった大井神社がある。

参道の土手堤石垣は、江戸時代に大井川の川越稼業の人たちが、毎日の仕事を終えて帰る際に河原から石一つを選び持ち帰って、それを積み上げて築いたもの。

こちらが本殿。

江戸時代に参勤交代の大名や飛脚が旅の安全を祈願したことから、旅行安全や交通安全にご利益があるそうだ。本日は東海道の難所と謳われた小夜の中山峠が控えているので、しっかりとお参りさせていただいた。

こちらは三年に一度開催される帯まつりを模した銅像。大奴が腰に丸帯を下げて練り歩く様は独特で、日本三奇祭に数えれている。

西見附跡

大井神社の前に説明看板。

ここは島田宿の西見附跡があった場所で、土塁で囲まれた枡形の見附だった。

大善寺

200mほど歩くと大善寺がある。

大善寺の前に黒板があり、日々変わる説教を楽しみにしている。今日はシンプルに『素直に学ぶ』と書かれていた。うん、もっと素直に教えを乞うようにしよう。

右に見えるのは時の鐘。

時の鐘は天明四年(1784年)に備えられ、明け六ツ(午前六時)と暮れ六ツ(午後六時)の鐘の音で、大井川川越の始まりと終わりの合図になっていた。

だが、鐘は昭和十九年の先の戦争の際に供出され、現在の鐘は昭和四十八年に造られたものになる。

そして500mほど先に大井川川越遺産跡の看板があるので、ここを斜め左に入る。

塚本家

斜めに入り200mほど歩くと、塚本家の木造建築がある。

こちらは備前国(現長崎県)の大村藩によって建てられたもので、参勤交代の際の宿や、江戸初期には茶商として利用された。

建物内には大名が宿泊した上段の間が現存しているとのこと。

私は東京から京都までの約500kmの徒歩旅に挑戦しているが、長崎から東京まではその2.5倍に当たる1200km-1400kmと、備前国の大名は途方もない距離を二年に一度移動したのだと驚く。備前国の大名にとっては、島田宿まで来ると旅も佳境?

大井川川越遺産跡

塚本家の先で道路の舗装が変わり、大井川の川越を再現した街並みになる。

番宿

そして、大井川の対岸に荷物や人を運ぶ川越人足が待機した詰所として使われた、番宿が並ぶ。

こちらは三番宿。

建物内には川越人足が怖い形相で立っており、ちょっとビックリ。

大井川の川越は、肩車越しのほか、庶民が乗る平蓮台、上流庶民や大名家臣などが乗る半高欄蓮台、大名や将軍が乗る大高欄蓮台と、三種の蓮台があった。

こちらは半高欄蓮台。

そしてこちらがもっとも高額な大高欄蓮台になる。

こちらの十番宿にも、

目つきの悪い川越人足が出番を待っていた。

川越人足は十五歳以上五十歳以下の屈強な男が務めた。

江戸時代中期の元禄年間で150人ほどだったが、その後増員され、幕末には650人ほどが働いていたという。

川越人足が換金したのがこの札場。

一日の川越しが終わると立会人が番屋で川札を回収して、ここで現金に換えて人足たちに分配した。

川越人足の管理を行なっていたという川会所の看板の向こうに見えるのが島田大堤。その先には八百屋お七と恋仲だった、吉三郎の墓がある関川庵があるが、今回はスルー。八百屋お七は、第2回で行った鈴ヶ森刑場で火炙りの刑で没した。

朝顔の松

大井川堤防の手前に公園があり、その中心に朝顔の松と呼ばれる一本の松がある。

朝顔という名の三味線弾きが恋人を慕って流浪中に目が見えなくなり、大井川に入水したが助けられ、奇跡的に目が治り、初めて目に映ったのがこの河岸の大松だったそうだ。

その大松は目通り1.5m、高さ20mだったが、惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを憐れんだ地元の人々によってお堂とこの松が奉納された。

大井川

そして土手を上がると大井川へ。ここまでが駿河國で対岸に見えるのは遠江國になる。

『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』という川柳があまりにも有名な大井川。この川柳の碑を箱根路で見たが、あの碑はここ大井川に設置されるべきなのでは、と思うのだが。

往時はここから先ほどの川越人足により対岸まで渡っていたが、

辺りを見回しても川越人足はおらずwww、上流に架かるあの橋を渡る。

水色のトラス橋に時代を感じる昭和三年架橋の大井川橋は、日本百名橋の一つに数えられている。

現在の大井川は水量が少なく、川越人足に頼らなくてもなんとか渡れそうな感じがする。

向こうに見える緑色トラス橋は東海道本線。

1kmを超す大井川橋を渡り切ったら、渡詰を左折して土手を進む。

土手を200mほど歩き、ここを右折。

少しわかりずらいが、旧東海道金谷宿方面の看板が目印になる。

そして八軒屋橋の手前の公園に次の目的地がある。

金谷宿川越し場跡

もちろん島田側と同じく金谷側にも川越人足が多く常駐しており、番宿や川会所、札場などが設置されていた。

こちらには復元はされていなかったが、往時の図解説が設置されている。

こちらのお方は仲田源蔵。

明治三年に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、仲田源蔵は職を失った1200人の川越人足を救うべく、政府に直訴。

拷問を受けるも仲田源蔵の熱意が政府を動かし、一戸あたり金十両と牧之原の300ヘクタールの開拓を許され、元川越人足とともに入植して牧之原大茶園の基礎を造ったという。

そして大井川鐵道大井川本線を横断する。

線路の先に見えるのは、蒸気機関車の発車駅として全国的に有名な新金谷駅だ。

駅で出発を待つのは国鉄色に塗装された元西武鉄道のE31電気機関車。ブルートレインを牽引していたEF65 500番台に似せた塗装に出雲のエンブレムが、ブルトレ世代の私の心を刺激する・・・駅で撮りたい。だが、今日は先が長いので、グッと堪えて先を急ぐ。

大代川に架かる往還橋を渡り、

三本の川が一本に集約する、ちょっと珍しい光景の清水橋を渡る。

山田屋本陣(三番本陣)跡

清水橋から200mほど歩いた、HEROという店の軒先に看板が設置されている。

ここが山田屋本陣、別名三番本陣があった場所になる。

山田三右衛門が務めたこの本陣は、江戸時代の中期までは脇本陣だった。

しかし後述する柏屋本陣(一番本陣)が失態をしたため、徳川家の宿泊所がこの山田屋に変更され、おそらくそれ以降、山田屋が三番本陣に格上げになったと思われる。

寛政三年(1791年)の大火で焼失したがその後再建され、嘉永七年の大地震で全壊した。

佐塚屋本陣(二番本陣)跡

現在の佐塚書店とその手前の住宅の敷地にあったが、佐塚佐次右衛門が務めた佐塚屋本陣、別名二番本陣。門の屋根には対の鯱が付いていたため、鯱の御門と呼ばれていた。

慶応四年(1868年)の明治天皇御東幸の折に天皇はここでお休みをとられるも、御食事の仕度には本陣の家族は一切手を出さなかったそうだ。

佐塚書店という屋号から察するに、この書店は子孫の方が所有しているのだろう。

柏屋本陣(一番本陣)跡

そして現在地域交流センターとJAがある場所が、かつては河村八郎左衛門が務めた柏屋本陣、別名一番本陣。

柏屋は金谷六人衆と呼ばれた名家の一つで、先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで、ここ金谷宿に屋敷を与えられ、尾張徳川家や紀伊徳川家の定宿として使われていた。

嘉永七年(1858年)の東海大地震で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだという。

一般旅人を泊めることを許されない本陣の多くは、江戸時代後期以降経営が厳しくなったというが、金谷宿でもっとも格式の高い柏屋もおそらく同じだったのか、プライドを捨てて旅籠になったのだろう。

歩みの記録

ということで、今回は金谷宿の柏屋本陣跡の前で終了。

大井川手前の川越遺産跡はとても見応えがあり、非常に楽しい道中だった。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータから、旅の記録を確認する。

  • 出発日:2026年4月19日(日)
  • 時 間:7時43分から9時30分(1時間47分)
  • 距 離:6.12km
  • 高 度:95m
  • 天 気:晴れ
  • 気 温:16度
  • 湿 度:74%

朝の7時43分に島田宿を出発して、1時間47分をかけて9時30分に金谷宿に到着。往時の宿場間はちょうど一里だったが、大井川で大きく迂回したので、歩いた距離は6.12kmだった。

最初は平坦で金谷宿の手前で少しずつ登り始めたが、上昇した高度は95mと大したことはい。

ということで今回は以上。次回は金谷宿から東海道の難所と謳われた小夜の中山峠を越えて、日坂宿を目指すので、興味のある方はお付き合いを。

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 大福様 こんにちは。八百屋お七の恋人、吉三郎の墓がこの付近にあるそうですね。昔、父が備前岡山に吉三郎の墓があるそうだけど知ってるか?と言っていたように思います。江戸期の悲恋物語は自由な結婚が許されていなかったため、全国各地、多くの人々の涙を誘ったのでしょう。興味深いことのように思います。話の内容は全然違いますが、こちらでは目が見えるようになった話に壺阪霊験記があります。当時の眼病が治った時のよろこびがひとつの伝説として残るほどの出来事だったのでしょうね。大井川の川越人足が1200人もいたことにはビックリさせられました。当時の東海道の賑わいが偲ばれます。それが牧之原茶園に繋がったというのもおもしろいですね。まさに瓢箪から駒。何が幸いするやらですね。
    次回の旅、楽しみにしています。お気をつけて⋯。😊

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