今回は旧東海道歩き旅の続き。鳴海宿から七里の渡しで有名な宮宿までを歩く。
この日の午前中は、池鯉鮒宿から鳴海宿までを歩いた。途中、中京競馬場に寄り道したため、すでに20km近く歩いて体力を消耗しているが、宮宿までは残り8km余り。日が暮れる前になんとか歩き通したい。
ちなみに、ライカM11に装着するレンズは、1958年製のズマロン2.8cm。68年前のレンズの写りも楽しんでいただきたい。

では、鳴海宿千代倉本陣跡の前から宮宿に向けて、しゅっぱーつ!
カメラ:LEICA M11
レンズ:LEITZ SUMMARON F5.6/2.8cm
長翁寺

本陣跡を出発したら、作町の交差点を道なりに右へ。

200mほど進むと、右手に立派な瓦屋根が見てきた。

その屋根は長翁寺。
長翁寺は織田信長ゆかりの薬師如来を祀るお寺になる。この薬師如来は信長の末弟の織田有楽斉が寄進したそうだ。

長翁寺から300mほど先にある、寛政四年(1792年)建立の秋葉常夜燈。この場所が鳴海宿の京口になる。

鳴海宿を出ると、旧東海道は緩い下り坂に。車で走るとまったく気にならないが、歩くとこの緩い下り坂が一番歩きやすい。
時刻は14時。朝コンビニでおむすびを食べてから何も口にせず歩いてきたため、腹が減ってきた。道中で地のものを食べられる店があったら入るとしよう。
鉾ノ木貝塚

しばらく坂を下ると、右手に鉾ノ木貝塚がある。
といっても、柵に囲われた場所に説明板があるだけなので、一度通り過ぎてしまったのだが・・・。
説明によると、鉾ノ木貝塚は縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、東南アジアの暖かい海に生息するハイガイを主として、縄文時代早期から前期の土器も出土しているらしい。昭和五年に野村三郎という人物が発見したそうだ。

貝塚を出たら、正一位緒畑稲荷神社社標を右手に見ながら進み、

県道を横断してそのまま先の道に入る。

100mほど進み右手前から来た道と合流して、

往時は板橋が架かっていたという天白川を渡る。

『知多郡道この先50m南へ』と刻まれた道標があるが、だいぶ新しいなあ。

その先を右に旋回すると、

大きな木が見えてきた。
笠寺の一里塚

その大きな木は、笠寺の一里塚東塚の塚木だった。

青々と元気に葉を生やすこのエノキは樹齢400年。江戸幕府が東海道に一里塚を整備したのが慶長九年(1604年)なので、なんとこのエノキはその時に植えられたもののようだ。

現在も元気な笠寺の一里塚のエノキ。ずっと生きながらえてもらいたい。
江戸日本橋から八十八里(345.6km)。
笠覆寺

笠寺の一里塚から500mほど先にあるのが笠覆寺。このお寺の歴史で特に有名なのが玉照姫伝説だ。

かつて小松寺と呼ばれた寺は荒廃し、本堂の十一面観音像は雨風にさらされていた。それを見かねた女性が、自分の笠を観音像にかぶせた。
その心優しい女性を藤原兼平が妻として迎え、玉照姫と呼ばれるようになり、兼平は姫と結んだ観音像への感謝から寺を再興し、笠で観音像を覆ったことから笠覆寺と名付けたそうだ。

また笠覆寺は天文十八年(1549年)に、織田家に囚われていた竹千代(のちの家康)と、今川家に囚われていた織田信広(信長の兄)との人質交換が境内で行われたお寺としても有名。
泉増院

笠覆寺の向かいに位置するのが泉増院。
玉照姫伝説を紹介したが、のぼり旗や提灯の文字でもわかる通り、こちらの不動堂では玉照姫を祀っている」。

そのとなりには西方院もあり、寺院が密集していた。
そんな寺院密集地域を過ぎると、笛や太鼓の音色が聞こえた。

その音の主はこちらの方々。ちょうどこの日は秋祭りが行われており、この後道中では小さな子供が担ぐ神輿と、太鼓の奥に見える大きな黒人を模した人形を何度も見ることになる。

そして名鉄名古屋本線の踏切を渡り、

その先を鈍角に右折するのが旧東海道。

左に見えたのが、清水稲荷神社の鳥居になる。
黒人を模した巨大人形が先導する神輿隊 熊野三社

写真左のように、町内会のテントを張り、その周りに先ほどの黒人を模した人形と神輿を置いて盛り上がる場所がたくさんあった。

そして、背後から子供たちの「わっしょい!わっしょい!」という威勢のいい掛け声が聞こえた。
振り返ると黒人の人形が2体。おそらくこの地域の守り神か何かだと思うが、中年おじさんが見てもちょっとだけ怖い・・・。

そんな黒人人形が先導する神輿隊は、ここ山崎村の鎮守である熊野三社に吸い込まれていった。

今度は別の神輿隊も。おそらくこちらも熊野三社を目指しているのだろう。坂道大変だけどがんばって!

こちらは出番を待つ神輿。

そして山崎川を渡り、

渡り詰めを左折する。
東ノ宮神社

山崎川から400m先の左に入った場所にあるのが東ノ宮神社。

境内には明治天皇覧穫之所碑と、八町畷御野立所碑がある。
明治元年の東幸の途中で、この八丁畷と呼ばれた場所で農民による稲の収穫作業をご覧になられた。明治天皇が農作業を視察するのは初めてで、それを記念して建立されたそうだ。写真下に見切れるカゴも、農作業で使われたものなのだろう。
明治天皇の東幸では、新政府幹部などを含め3,000人以上が供奉したそうで、天皇たちが通りかかるタイミングを見計らい、23人が稲刈りの作業を行なったそうだ。

そして旧東海道復帰して、

大通りを歩道橋で越えていく。
ちなみにこの先に見える道が、明治天皇が農作業を初めて見たという八丁畷。織田信長が整備したそうだ。
現在はビルが建ち並び、150年余り前までは田んぼだったとは信じ難い。

そして高架になる手前を左の側道に入る。
ビルの上にトヨトミの大看板。そういえば、道中で徳川家康や織田信長のエピソードは多く見たが、豊臣秀吉の話は矢作橋の一度のみ。農民出身の秀吉は若いころのエピソードが謎だらけなので、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも創作が多くなるのだろう。

そんなどうでもいいことを考えながら、JR東海道本線を横断し、

その先のY字路を右に進む。
時刻は15時40分。だいぶ陽が傾いてきたが、ゴールはもうすぐなので陽が暮れる前に到着しそうだ。
それよりも心配なのが私の足。朝からすでに27kmほど歩き、この旅で一日の最長距離を更新しており、足が棒のようになっているが、最後の力を振り絞りゴールへ向けて頑張ろう。

そして新堀川に架かる熱田橋を渡り、

名鉄常滑線のガードをくぐる。
伝馬町の一里塚跡

ガードをくぐった先に三角形の公園があるが、ここにかつて伝馬町の一里塚があった。

大都会名古屋の中心だが、一里塚にわかファンとしては、その雰囲気だけでも残してくれたことに感謝。
江戸日本橋から八十九里(349.5km)。

小田原攻めの陣中で病死した息子への思いが断ち難く、架橋したという裁断橋址の碑を左に見ながら進む。
鈴之御前社

三種の神器の一つである日本武尊の草薙剣がある、熱田神宮はこのすぐ北側。
ということで、参拝者はここ鈴之御前社で身を清め、お祓いを受けたという。

鈴之御前社の先の大通りは横断ができず、右側の横断歩道を利用し、

旧東海道に復帰。

見上げるとビルのてっぺんにめんたいパークの文字。ん?めんたいパークどこかで見たなあ・・・伊豆へそだっ!名古屋と伊豆、関係は??

そしてほうろく地蔵が祀られる丁字路を左に曲がる。ちなみに、ここを右に行くのが佐屋街道。

すると国道247号線に出るので、正面に見える宮の渡し歩道橋を使い横断する。

歩道橋の上から撮影。正面の斜めの道が旧東海道になる。その入り口に行列ができているが、あそこが次の目的地になる。
赤本本陣跡

ここ蓬莱陣屋の辺りが宮宿の本陣の一つがあった場所になる。
ちなみに蓬莱陣屋は名古屋名物のひつまぶし発祥の名店で、この日も予約券ももらうために多くの行列ができていた。
昼食にありつけずにここまで来てしまったが、やっと巡り会えた!?
ということで行列に並ぼうとも思ったが、こんな名店だと、ひつまぶしにありつけるまでにさらに時間が掛かりそうだと思い断念。
食べときゃよかったかも。。。

そのとなりの宝勝院は、熱田湊の常夜燈を管理していたお寺になる。

さあ、海が見えてきた。ん?今は川?わかっているが、ここは江戸情緒に浸りたいのだ。
ここを右に折れて、ゴールにアプローチする。

時の鐘が見えてきたが、感動のフィナーレ(?)の前に寄りたいところがある。
丹羽脇本陣

七里の渡しからちょうど正面に立地するのが宮宿の脇本陣丹羽脇本陣で、屋号を伊勢久と称していたそうだ。
破風付き玄関が最大の特徴。時刻は16時を回り、低い太陽から西陽が当たり、さらに格式を感じた。

そのとなりの建物はさらに歴史がありそうだが、こちらは明治二十九年築の料亭魚半跡。現在は熱田荘として営業しているようだ。
七里の渡し跡

そして、ここが、旧東海道歩きの主要スポットの一つ、七里の渡し跡だ。

七里の渡しは現在もスロープ状になっている。往時はここから多くの舟が、桑名宿とのあいだを往来していたのだろう。
ただ、現在は埋立が進み、堀川と新堀川の合流地点で、堀川の河口はここから4.5kmほど先になる。

手前は熱田湊常夜燈。往時は灯台の役目をしていたのだろう。
そして奥は時の鐘。ともに復元ではあるが、いい雰囲気を醸し出してくれていた。

太陽が西の空に沈む直前のしんみりとした景色だぜ。よーし、最後に心の中で叫ぶぞ。
「江戸日本橋から、遠路はるばる歩いてきたどー!」
旅の記録

ということで、今回は鳴海宿から宮宿の七里の渡し跡までを歩いた。
では、いつものようにiPhoneのフィットネスで旅の記録を確認する。
- 出発日:2026年10月10日(土)
- 時 間:13時49分から16時23分(2時間34分)
- 距 離:8.58km
- 高 度:62m
- 天 気:晴れ
- 気 温:26度
- 湿 度:54%
この区間は8.58kmの距離を2時間34分かけて歩いた。
濃尾平野の平坦な区間だったので、上昇した高度は62mとほどんど坂を感じることなく、最高の天気の下で歩くことができた。
ただ、今日は池鯉鮒宿から鳴海宿を経由して宮宿までを歩き、一日あたりの総距離は28kmと今までの旧東海道歩きで一番歩いたため、足にかなりのダメージがあった。東海道を歩いた江戸時代の旅人は、一日平均40km近くだったというから驚きだが、現代人としては結構歩いたでしょ?
そんなことを思いながら、その日の夜に一日の歩数計をチェックすると・・・48,500歩!やっぱりとんでもなく歩いたぜ。
ということで、今回は以上。次回は舟に乗り七里の渡し・・・いや、いまは定期航路がない。
では、どうして桑名宿まで行くか。徒歩で佐屋街道を経由して川沿いに下る方法もあるようだが、迷った挙句、私は往時と同じく乗り物、鉄道を使い桑名宿に向かうことにするので、興味のある方はお付き合いを。

コメント
コメント一覧 (1件)
大福さま こんにちは。今回の道中は今風の街中を通っていくといった感じですね。「ここが旧東海道だったんだよ」と言われると「ふーん、そうなの?」ぐらいの会話になりそう。笠寺の一里塚の榎、立派で堂々としていますね。400年以上経つと立派な大木に成長する・・・。生まれたときから動くことなく大きくなって・・・、たいしたもんだね~。大樹に育った木を見て、いつも思うことです。
八丁畷の件、150年前までは田んぼだったとは信じがたいとおっしゃっていますが、私が子どもの頃は、大阪市でも少し中心地を離れると畑があったり、田んぼがあったりで、灌漑用の水路などで魚を掬ったり、魚釣りをしたこともあります。今はもうその面影が全然見当たらなくなっています。ですから、ここ6~70年ぐらいで、日本は激変したように思います。
裁断橋、ちょっと気になったので調べてみたのですが、小田原攻めで亡くなったのは堀尾金助。秀吉の稲葉山城(今の岐阜城)攻めで、険しい山城であった稲葉山城への間道を案内して勝利に導いた堀尾茂助(吉晴)の子どもだったんですね。父・茂助はこの時の功により大いに取り立てられたという・・・。父親を知って、こんなところにと言った感があります。
熱田神宮は以前、名古屋を通過する際、道に迷ったところ。うろうろしているときに鈴之御前神社の前も通っていたかもです。(^_^;)
ほうろく地蔵というのも面白いですね。笠をかぶせてもらった笠覆寺の観音様と違って、本当に焙烙をかぶっていらっしゃるのだったら、笠の代わりにはなりそうですが、もし頭から落ちたら割れてしまうでしょう。見ているだけでヒヤヒヤ地蔵・・・? 笠にまつわる仏様が二体もあるのは名古屋の冬は、時として大雪になり、大変なことになることがよくあるからでしょうか。
ひつまぶし残念でしたね。それにしても、日本人の行列好きは面白いですよね。外国人が見たら奇異に感じるかもです。私のような古い人間から見れば、戦後の食糧配給の時に並んだ光景が浮かんできます。もっとも私は戦争を知らない子どもですので、実際に並んだことはありません。でも話にはよく聞きました。そうだ、パンを買いに行くとき、お金とクーポン券なるものを持って買いに行ったことがあったっけ。でもその頃は形だけのものになっていたように思います。伴侶はそんなこと、全然知らないと言っていますし・・・。お米の配給制度なら知っています。具体的にどんなシステムだったのかは知りませんが・・・。といった食糧難時代、配給の行列を経験した世代の遺伝子が今の人たちに残っているのかも知れませんね。(^_^;)
丹羽脇本陣、脇本陣としてはちょっと変わった造りのように思いました。唐破風はそれなりの格式を表しているようですが、卯建が上がっているので商家のような感じがするのです。きっと奥行きが深く、脇本陣にふさわしい立派な座敷や前栽があったのでしょうね。七里の渡しのスロープが残っているなんてすごーい。今も船着き場として使われているのかしら・・・。おーい、舟が出るぞ~!なんちゃって。熱田湊常夜灯、さすがですね。東海道の重要性が感じられるように思います。
次は桑名から始まるのですか?楽しみにしています。
お気をつけて・・・。