ライカを持って旧東海道を歩く【第32回】(新居宿→白須賀宿)

今回は旧東海道踏破の旅の続き。

梅雨ということで週末は雨が続き、新居宿に到着してから約1ヶ月が経過してしまった。

この旅を撮影するための新たなレンズを購入したのだが、なかなか試す機会がない。

購入したレンズは1958年製のズマロン2.8cm F5.6。蒲原宿から使っている復刻赤ズマロンの元となったレンズだ。

本日は水曜日だが会社の全休日。天気は曇りで、逆光に弱い68歳レンズで撮影するのには最適な天気になる。

ということで、新たに迎え入れたレンズとともに、久々の徒歩旅に出かけることにした。

7時18分静岡発の新幹線に乗り、浜松で東海道本線に乗り換えて新居町駅に到着すると蝉の鳴き声。今年も夏がやってきた。

そして5分ほど歩き、前回到着した新居宿の入り口にある新居関所に到着した。

今回初投入の元祖赤ズマロンで新居関所の門を撮影すると、まもなく古希のレンズとは思えぬ切れ味にびっくり。これなら問題なく使えそうだ。

ちなみに、右下の影はレンズにかかった私の指・・・。この後も何度か登場します。。。初心者かっ!

では、今日もライカM11をぶら下げてしゅっぱーつ!

カメラ:LEICA M11
レンズ:LEITZ SUMMARON F5.6/2.8cm

目次

旅籠紀伊國屋

新居宿名物あと引せんべいを製造するあと引製菓を過ぎると、歴史深い建物がある。江戸時代の建築様式を色濃く残して明治初めに再建された旅籠紀伊國屋だ。

名前の通り紀州藩御用達の宿で、お七里役場もかねていた。

紀州藩といえば1619年以降は徳川御三家のひとつで、全国5位の55.5万石を誇る藩なのに、なぜ旅籠?大名ほか藩の主要人物以外が利用したのか?誰か教えてくんなまし。

どうやら入館できるようだが、残念ながらまだ開館前だった。

旅籠紀伊國屋のとなりの酒屋は、景観に配慮して往時の雰囲気で建っていた。

その向かいに疋田弥五郎本陣があったようだが、現在は標石など、その場所を示すものは存在していない。

飯田武兵衛本陣跡

旧東海道はその先の突き当たりを左に折れるのだが、正面に趣のある建物が建っていた。

こちらは小浜藩、桑名藩、岸和田藩など、約七十家が利用したという飯田武兵衛本陣があった場所で、明治元年の天皇行幸や翌明治二年の再幸、明治十一年の巡幸など、三度に渡り行在所として利用されたそうだ(行在所の建物は奥山方広寺に移築)。

その後に建てられたのであろうこの建物は、和洋折衷の擬洋風建築のような感じで非常に興味深かった。

疋田八郎兵衛本陣跡

飯田武兵衛本陣のとなりに位置していたのが、庄屋や年寄役を兼ねていたという疋田八郎兵衛本陣。

徳川御三家や吉田藩など、約百二十家が利用したそうだが、現在は空き地だった。

旧東海道を歩く楽しみの一つがその地域でしか見られない選挙ポスター。

ここ湖西市は城内実大臣の選挙区で、かつては片山さつき大臣と熾烈な争いをした(現在は参院比例区)が、その両者のポスターが並んで掲げられているのが面白い(当ブログに政治的意図はない)。

現在歩く旧東海道の雰囲気はこんな感じ。センターラインのない道だが、現在も主要な道なのか、それとも通勤の抜け道なのか、車がかなり通り少々怖い(車が来ないタイミングで撮影)。

池田神社

小牧長久手の戦いで戦死した池田恒興の首塚跡がある池田神社は、少々荒れ気味だった。

新居の一里塚跡

池田神社の先に新居の一里塚跡の碑があるはず、と思い探すが見つからず・・・。

引き返すと塀に馴染んでわかりづらかったが発見。

江戸日本橋から六十九里(約276km)。よく歩いてきたなあと我ながら驚く。

そして新居の一里塚碑の先を右折すると、次の目的地が見えてきた。

棒鼻跡

枡形の形状からわかる通りここが新居宿の京口で、往時は土塁が突き出ていたそうだ。

この京口には棒鼻跡と書かれた標石と説明書きがあり、それによると棒鼻とは駕籠の棒先の意味で、大名行列が宿場へ入る時にこの場所で先頭(棒先)を整えたことから、ここを棒鼻と呼ぶようになったそうだ。

棒鼻から200mほど歩きこの交差点を右折し、

県道を進む。

風炉の井

県道に出て150mほど進むと右側に埋められた井戸がある。

こちらは風炉の井と言い、源頼朝が橋本宿に立ち寄った際に茶の湯に用いたそうだ。

尚、橋本宿とは平安末期から室町時代にかけて存在したこの辺りの宿場。明応七年(1498年)に発生した明応地震により水没し、宿場は新居宿に移転した。

風炉の井の前の橋本西交差点を斜め右に入る。

浜名旧街道松並木

すると右手に浜名旧街道の松並木がしばらく続く。

右下には私の指がまた登場。M型ライカのファインダーは素通しで、実際に撮影される絵は見えないのでこのようなことが起こるのだが、なんとも恥ずかしい。

言い訳をすると、前回まで使っていた復刻赤ズマロン(レンズ)にはフードがあるのでそれによりガードしてくれたのだが、今回投入したオリジナル赤ズマロンにはフードがないので、こうなったのかと・・・。

それにしても、68年前のレンズなのに、現代レンズと遜色なく描写してくれているのにはびっくり。1950年代の発売時からキレある描写が評価されていたようだが、今でもしっかりと使えた。

旧東海道は緩やかな上り坂になり、これから迎える潮見坂が近づいていることを知らせてくれる。

松並木に歌碑が建っていたが、

歩道側は裏側。

道路に回り込んで見てみると、鎌倉時代中期の公家・歌人の藤原為家と、鎌倉時代中期の女流歌人の阿佛尼の二人が詠んだ短歌が刻まれている。

風わたる
濱名の橋の夕しは
さされてのぼる
あまの釣舟

藤原為家

わがためや
浪もたかしの浜ならん
袖の湊の
浪はやすまらで

阿佛尼

この辺りの景色を観て歌ったのだということだけはわかるのだが、うーん、夏井いつき先生、ぜひ解説を。

余談だが、これまで多くの石碑は道路側を向いているが、じっくり見るのは歩道を歩く人たちなのでは?向きが違うと思うのだが・・・。

立場跡

長い松並木が終わると民家になり、その入り口に立場跡の碑が建っていた。潮見坂を控えたこの立場は代々加藤家が務めていたそうだ。

旅人を見ると湯茶を勧めたので、ある殿様が、『立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに』という戯歌を詠んだという話しが残っている。

立場跡を過ぎると道は少しずつ上り始める。

東新寺

立場跡標石の先には東新寺がある。

境内には六地蔵や弘法大師像などがあるようなのだが、潮見坂に備えて体力温存。

この辺りは明治期に主要道から離脱したため、多くの古い家屋がそのままの形で残っていてなかなか雰囲気が良く、それを見ながら緩い上り坂を歩いて行く。

秋葉神社

こちらは秋葉神社。

平成三十一年発行の解説本には秋葉山鞘堂が取り払われたと書かれているが、現存しており修繕中だった。となりには近年建造された新しい秋葉山常夜燈がある。

火伏の神を祀る秋葉山の本宮は、ここ湖西市のとなりの浜松市ということで、この辺りも秋葉山信仰は色濃く残っているようだ。

明治天皇御野立所阯碑

ガードの手前に立看板があり、振り返ると、

明治天皇御野立所阯と刻まれた石碑があった。

明治元年の東幸の際に、明治天皇がここでお茶を点てて、その後、新居宿で見た飯田本陣に向かったそうだ。

進行方向左手の遠州灘方面を望む。

遠くに見える高架は国道1号線で、その手前に旧国1の国道42号線が走る。現在はあちらが主要道だ。

そんな景色を見ていると草刈機の勇ましい音が聞こえ、夏らしい草の香りがした。

この感じ、どこかで・・・ゴルフ場だ。ゴルフ行きたいなあ。うん?そんなこと書くなって??

火鎮神社

こちら火鎮神社はその名の通り火を護る神社。

また、徳川家康公が負け戦で匿われた場所とのことで、祭神の一人に家康公も祭られている。

軽い上り下りが続く旧東海道。緩くブレながらの一本道がかつての雰囲気を残して良い感じ。

この辺りに安土桃山時代の武将である加藤清正を祀る清正公大神社があるはずだが、見つけられなかった。

加藤清正といえば熊本城や名古屋城を築いた築城の名主ということで、土木の神様として信仰されているそうだ。

内宮神明神社・内藤家長屋門

こちらは伊勢神宮内宮を総本社とする内宮神明神社で、天照大御神を主祭神として祀っている。

そのとなりには、代々内宮神明神社の宮司を務めていたという内藤家の立派な長屋門がある。

内宮神明神社から500mほど歩き、この丁字路を右に曲がるのが旧東海道。

曲がるとすぐに一際急な坂が現れる。潮見坂の始まりになる。

広角レンズではわかりにくいが、日坂宿手前、小夜の中山峠の青木坂以来の難敵のようだ。

坂をヒーヒー言いながら上り、思い出す・・・あれ?白須賀の一里塚は?どうやら通り過ぎてしまったようだ。

一瞬たじろぐも、一里塚マニアとしてはしっかりと確認しておかないとと思い直し、上った潮見坂を下り、さらに600mほど引き返して内宮神明神社のその先まで歩く。

白須賀の一里塚跡

なるほど、ここに一里塚の碑があったとは・・・進行方向からだとデリカミニが邪魔をしていて見逃したようだ。

たかがこの標石を撮るためだけに戻ってきたの?と言われそうだが、一里塚マニアとしては取りこぼしなく見ていきたい一里塚の痕跡。

江戸日本橋からちょうど七十里(約280km)になる。

潮見坂

ということで、もう一度潮見坂を上り始め、

振り返ると遠州灘が見えてなかなかの景色。

ここは京から江戸に向かう旅人が、初めて太平洋の大海原を目にするポイントとして古くから知られており、この太平洋を見ると江戸まであと半分だ、と言われていたそうだ。

まあ、実際にはこのずっと先の袋井宿が真ん中なのだが、わざと気持ちを昂らせていたのだろう。

そしてその先を右に曲がり、

潮見坂の看板が見えたら頂上はもう少し。

最後の坂を上り切り、

ここが潮見坂の頂上。

途中でApple Watchを見ると心拍数は137を記録していたが、坂は長くは続くことはなかったので、箱根峠や小夜の中山峠などの東海道の難所と言われる場所に比べたら大したものではなかった。

頂上は台地になっており、白須賀宿を学べるおんやど白須賀で一休み。

右手に白須賀中学校・小学校を見ながら歩く。本来は校庭付近を通っていたようだ。

ここは苦労して上ってきた潮見坂の頂点。通学の学生は毎日大変だ。

学校の先で道が合流し、

そこを過ぎると民家が軒を連ね、道は下り始める。

東枡形

クランク状の線形が往時の通りに残るここは白須賀宿の東枡形。車は減速をしながら通り抜ける。サーキットのシケインと同じ役割だ。

東枡形に曲尺手(枡形のこと)の説明書きがあり、宿場への敵の侵入のほか、参勤交代の際に大名行列同士が道中でかち合わないようにする役割も持っていたそうだ。

もし格式の違う大名同士がすれ違った際には格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたりだったが、君主を駕籠から降ろすことは行列を指揮する供頭にとって一番の失態だった。

そこで下見役に枡形の先を下見させて、もしかち合いそうな場合には、格式の低い大名一行は休息を装い最寄りの寺に急遽立ち寄ったという。

東枡形先の自転車屋。すでに閉業しているようだが、店頭にはのぼり旗が残っている。

いつまで商売をしていたのか、どんな感じで商売をしていたのかと思いを馳せるのが楽しい。

白須賀本陣跡

その先に白須賀宿本陣跡の碑がある。

白須賀宿唯一の本陣は大村庄左衛門が務めており、幕末の元治元年(1864年)の記録によると建坪百八十三坪だったそうだ。

白須賀宿は元々浜辺にあったのだが、宝永四年(1707年)の宝永地震による津波で壊滅し、潮見坂上のこの場所に移転した。

吉原宿や新居の関所など、これまで歩いてきた場所も宝永地震(東海地震)により移転を強いられてきたことを、この旅で知った。

静岡市に住む私は、子供のころから、いつ東海地震が起きてもおかしくないと言われ続けて半世紀が経った。ずっと言われ続けてきたのでマンネリ化してしまったが、この旅を通じて、もう一度地震について考える良い機会となった。

白須賀宿脇本陣跡

本陣となりにあるこちらの建物の付近にあったのが、白須賀宿唯一の脇本陣の場所になる。

建物の前には脇本陣の標石。屋号を桐屋といい、三浦惣次郎が務めたそうだ。

旅の記録

ということで、午前中の部は白須賀宿脇本陣跡で終了とする。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータで、旅の記録を確認してみる。

  • 出発日:2026年7月8日(水)
  • 時 間:8時36分から11時31分(2時間55分)
  • 距 離:9.10km
  • 高 度:135m
  • 天 気:曇り
  • 気 温:25度
  • 湿 度:75%

8時36分に新居宿を出発して、約3時間歩いて11時31分に白須賀宿に到着。潮見坂出前で引き返したことで、往復1.4kmほど無駄に歩いた結果、歩行距離は9.1kmと通常よりも多くなってしまった。

上昇した高度は潮見坂があったので135mといつもよりは上ったが、小田原宿から箱根宿の990mや小夜の中山峠のある金谷宿から日坂宿の313mに比べれば大したことはなかった。

さで、今回の旅で初投入した68年前のレンズ、赤ズマロンで撮った絵は皆さんどのように感じただろうか?

私的には大満足。オールドレンズ特有のふんわり感や黄色味をわずかに感じつつ(これがオールドレンズの味)、レンズのくもりによる白いモヤがなく十分に使えたことが驚いた。

使う前は不安で復刻版も持参していたが、曇りということで厳しい逆光がなかったことも幸いしたかもしれないが、あらためて良い買い物をしたことに満足した。

ただ、写真中央部に線のような影があるのが気になった。おそらくこれはレンズ内部のカビか埃が原因だろう。

まあ、これもオールドレンズの味。今後も旧街道歩きの友としてたまに使っていこうと思う。

ということで今回は以上。

次回はついに県境を越えて愛知県へ。白須賀宿から二川宿までの道中を書いていくので、興味のある方はぜひお付き合いを。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 大福様 おはようございます。
    飯田武兵衛本陣は行在所として使われていたそうですが、いわゆる玉座(御座所)なども作られていたのでしょうか。金剛峯寺などには専用の部屋があり、玉座も作られているので、ちょっとばかり気になって・・・。
    池田恒興は姫路藩主となり、姫路城の大改修を行った輝政の親であり、輝政の子、孫が岡山藩主や鳥取藩主となったという池田家隆盛の祖であることはあまり知られていないでしょうね。私の出身地が岡山県であるためちょっとばかり知っているだけのことですが・・・。(^_^;)
    20枚目、22枚目、30枚目、37枚目、40枚目の写真の風景は、私にとって何故か懐かしい感じがします。いわゆるデジャブというのでしょうか。いや、もしかして私が小さい頃にはこんな雰囲気が実際に見られていたのかも知れません。
    浜名旧街道の松並木、みな行儀がいい立ち姿ですね。風当たりが少ないからでしょうか。歌碑の向きの件ですが、昔は歩道がなかったからかもです。
    殿様の戯歌、面白いですね。昔々私が若かった頃、偏食気味で「牛や羊でもあるまいに葉っぱ(野菜)なんぞ食っていられるか」と野菜はほとんど食べず肉ばかり食べた結果、後に死ぬ目に遭うほどの大病を患ったという苦い経験を思い出します。(^_^;)
    見逃した一里塚を600mも引き返して確認されるなんて、たいしたものです。私なんかは引き返すとしたら50~100mぐらいかな。まあいいか、次の機会にしようなんて、自分に優しい言い訳を考えたりして・・・。(^_^;)
    潮見坂って国道1号線が通っていて、そこから遠州灘が見えますよね。むかし何度か通ったことがあり、そのたびに雄大な遠州灘の眺めに感動したのですが・・・。
    東枡形、生活の知恵ですね~。お供の方々の苦労が察しられます。
    むかし浜松の知り合いのところに良くいったのですが、その時地震に備えたあまり高い建物は浜松には建てないことになっているといったような話を聞いたことがあります。でも、怖いのはやはり津波ですよね。東日本大震災の時思い知らされました。和歌山も南海地震が心配されていますが、串本に行ったとき、津波避難タワーというのが建てられていて、びっくりしたことがあります。ここには地域住民以外でも上らせてくれるのかしらと思ったりして・・・。
    今回もありがとうございました。これから本格的な夏に向かいます。ご無理をなさいませんように、旅をお続けくださいませ。

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