ライカを持って旧東海道を歩く【第30回】(浜松宿→舞坂宿)

今回も旧東海道踏破の旅の続き。

自宅から近い静岡駅から7時18分発の新幹線に乗り、30分足らずで浜松駅へ。

駅から10分ほど歩き、前回のゴール地点である梅谷本陣前に到着した。

では、次の宿場である舞坂宿に向けて、Goです!(しまった!YouTubeの『ななすけの散歩録』に引っ張られた・・・)

目次

松尾神社

通勤ラッシュで渋滞の車列を見ながら、浜松中心街を走る国道257号線を南西方向に進む。空はまだ雲が多いが、予報では次第に好転するようだ。

そしてビルの隙間に見える大きな木の場所が、本日最初の目的地になる。

こちらは松尾神社。

浜松神社として同和年間(708年-715年)に創建。

天正五年(1577年)に徳川家康公が曳馬城を浜松城として拡張した際に、城内の浜松神社と守護神の曳馬神社を合祀して、松尾神社としてこの地に引っ越してきたそうだ。

明治期に建てられたような日本の古い建物に不釣り合いな中国料理の看板。

店の入り口には「帰国のため、しばらく休みます」との張り紙があり、中国人が経営しているようだ。

福の字が逆さになっているのはなぜかと思い調べてみると、中国では縁起の良い風習なのだとか。

そして成子の交差点を右折する。

200mほど進み菅原町の交差点を斜め左に入るのだが、この左側に地蔵が祀られている。

子育て地蔵尊

子に恵まれない夫婦が願を掛けたところ子を授かったというこの地蔵は、そのまま子育て地蔵という。

地蔵菩薩は嘉永四年(1851年)、巡拝供養仏は享保八年(1723年)建立。

東海道本線のガードをくぐり、突き当たりを右折して国道257号線に復帰する。

かつてこの辺りから八町(約900m)の田んぼのあぜ道があり、八丁畷と呼ばれるようになったそうだ。

東海道新幹線のガードをくぐる。

鎧橋

しばらく進むと鎧橋を渡る。

平安末期に戒壇設置で争いになり、押し寄せた比叡山の僧兵に対して、この辺りにある鴨江寺側は水田に水を張り、鎧を着て迎え撃った。

双方の戦死者約千人を橋の北側に葬り、千塚と言ったそうだ。

八丁畷と呼ばれた道は鎧橋の辺りまで。その場所には八丁饅頭という看板があったが、すでに廃業したようだ。

若林の一里塚跡

鎧橋の先に一里塚の碑が設置してある。

ここにかつてあったのが若林の一里塚。

江戸日本橋から六十六里目(約264km)になる。

二ツ御堂

若林の一里塚の先で左にカーブをするのだが、その曲がった先の東海道の両側に、二ツ御堂と呼ばれるお堂がある。

平安末期に平泉(岩手県)を拠点としていた第三代当主の藤原秀衡が京で病に倒れると、妾が京に向かい、ここで藤原秀衡の死去の知らせ(誤報)を聞き、阿修羅堂を建設(写真右)し、亡くなったそうだ。

藤原秀衡は京から平泉に戻る際、妾のために薬師堂(写真左)を建設した。

二ツ御堂の西には、藤原秀衡が妾のために植えたとされる秀衡の松が明治十五年頃まで残っていたようだ。

八幡神社

二ツ御堂の西にあるのが八幡神社。

よく育った松の木が印象的で、境内には鎧橋から移植したクスノキがあるそうだ。

名残りの松を見ながら西に進む。

本日最初の目的地である舞坂宿まで9km。そして豊橋の案内も出ている。昨年暮れから歩いてきた静岡県もまもなく終わり、愛知県ももうすぐだ。

ところでガイドブックには舞坂宿と書かれているが、現在は舞阪。大阪同様に坂の字が途中で変化したのだろうか。

可美村記念碑

浜松市・可美村合併記念の碑。

先ほどから可美小学校や可美公園などの看板が多く目に留まったが、この地はかつて浜名郡可美村だった。

可美村には自動車メーカーのスズキの本社があり、法人税などの税収が多く入っていたため、浜松市への合併を拒み続け、バチカン市国の如く周囲を浜松市に取り囲まれた。

スズキは浜松の企業として知名度が高かったため、対外的な本社住所を静岡県浜松市”外”高塚300番地としていたことを思い出す。

しかし屎尿処分施設を設置することができず、平成三年に浜松市と合併した。

諏訪神社

浜松市・可美村合併記念の碑のとなりにあるのが、信州の上諏訪社から大永四年(1524年)に勧請されたという諏訪神社がある。

秋葉山常夜燈

諏訪神社の先にある秋葉山常夜燈は切妻木造屋形の中に安置されていた。

ここまで多く見てきた火伏の秋葉山常夜燈だが、その秋葉神社の総本宮は浜松市の天竜区にある。

浜松を統治していた徳川家康公は、天正2年(1574年)に浜松城の西側にも秋葉神社を建てたそうだ。

熊野神社

秋葉山常夜燈からすぐの場所にある熊野神社。

説明板によると、室町幕府将軍足利利尊の推す北朝方の光明天皇が康永三年(1344年)に創建されたとの記録があるが、大正十五年に火災により社殿などが悉く焼失したため、由緒ははっきりしないそうだ。

火伏の秋葉山常夜燈が近くにあったのに・・・。

浜松領界石

熊野神社のすぐ先の、駐車場の一角に浜松領界石が残されおり、『従是東濱松領』と刻まれている。

その通り、ここが浜松領と旗本大沢家の堀江領との境だった。

スズキ本社

その先にスズキ入口と書かれたバス停がある。

もしや、あのSのマークが本社?って、そんなはずはない。

手前の浜松領界石があった角を北に進み、踏切を渡ると見えてきた。

これがスズキの本社だ。日本の自動車メーカー売上高ランキング第4位(6兆円)、国内販売台数ランキング第2位の企業だが、意外にも質素な本社(失礼っ!)。

まあ、薄利多売の軽自動車市場で打ち勝ってきた質実剛健なスズキらしい本社かな。

堀江領界石跡

旧東海道に復帰するとすぐに堀江領界石と書かれた標柱がある。榜示杭のような標柱だが、後年に領界石の場所に立てられたのだろう。

ということで、宝永二年(1705年)から明治維新まで旗本大沢家が治めた堀江領に入る。

麦飯長者跡

堀江領界石跡から500mほど歩くとまたも標柱。

小野田五郎兵衛という長者が住んでいた場所で、明治維新ごろまで街道を行き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせていたそうで、五郎兵衛は麦飯長者と呼ばれるようになった。

その素晴らしい行いが浜松城下にも知れ渡り、小野田の姓が許され、村役人、庄屋を務めたそうだ。

げんこつハンバーグで有名な静岡県限定のレストラン『さわやか』の前を通る。

特に県境に近い店舗では県外からのお客さんが多く、行列が絶えないが、今日は平日でまだ10時ということで、並んでいる方はいないようだ。

そしてさわやかの先のY字路を右に進む。

立場本陣跡

Y字路から少し進むと、趣のある木造建屋の前に説明板が立っていた。

どうやら立場があった場所らしく、立場本陣があり(この建物なのかは不明)、明治元年に明治天皇が御小休されたという記録が残されている。

筋向いには、江戸時代から明治時代に発行された旅のガイドブック『道中案内記』に載っている茶屋浅田屋があったそうだ。

東神明宮

立場本陣跡の近くにある東神明宮は、建暦二年(1212年)に浜名湖の神明島に鎮座。永徳年間(1381-1392年)に現在の場所に還座したそうだ。

神明造りの立派な社殿は、昭和七年に再建された。

篠原の一里塚跡

東神明宮から200mほど歩くと、民家の生垣の中に説明板がある。

ここが篠原の一里塚があった場所。この一里塚は北側の塚に榎が、南側の塚に松が植えられていたそうだ。

江戸日本橋から六十七里目(約268km)。

篠原の一里塚から300mほど歩いた先に高札場があり、この辺りは札木という地名になって残っているそうだ。

進行方向右手にずっと東海道本線が走っており、その向こう側には東海道新幹線が駆け抜ける。

東京-京都は在来線だと10-15時間で、新幹線だと2時間15分。徒歩で京都に向かっている私は本日で17日目になるが、まだ半分少々・・・。

まあ、時間はとんでもなくかかる徒歩旅だが、ここまで電車じゃ見られないものをたくさん見てきたし、これからも見られるだろう。

同じような木造屋形の鞘堂内に安置された、二つの秋葉灯籠を見ながら進む。

愛宕神社

二つ目の秋葉灯籠を過ぎると、文禄元年(1592年)にここ坪井村の氏神として勧請された愛宕神社がある。

慶長六年(1601年)には徳川家康公が鷹狩りの折に参拝したという当神社。

私が訪れると地域の方が参道を掃き清めていた。今もなお地元の方々に愛されているのだろう。

ガイドブックに文化十三年(1816年)建立の石鳥居とあるが、昭和三年十月と刻まれている・・・。他にも鳥居があったのか??

しばらく歩き、県道と交差する大きな交差点を渡ると次の目的地になる。

稲荷神社

こちらは永享十二年(1440年)に伏見稲荷より勧請した稲荷神社になる。

二つの鳥居を抜けて、本殿の前でパンパンッと乾いた音を響かせる。

引佐山大悲院観音堂聖跡碑

稲荷神社から300mほど歩くと木造屋形に安置された秋葉山常夜燈があり、

その奥の城パイプで囲われた場所に石碑が建っていた。

これは引佐山大悲院観音堂聖跡碑。

かつてこの場所には馬群観音堂があり、平安時代後期の仏師 定朝作の聖観音菩薩像を安置していたが廃寺になった。その観音像は北にある如意寺に移設されたそうだ。

東本徳寺

引佐山大悲院観音堂聖跡碑から500mほど歩くと、髭題目で南無阿弥法蓮華経と書かれた碑がある。ここは東本徳寺。

長い参道を歩き、本堂脇のソテツの大樹が印象的だった。

西本徳寺

そのすぐ先にある西本徳寺にも髭題目。

綺麗に整備された山道の先の立派な瓦屋根の本堂には、漁師の網にかかった釈迦像が祀られる。

春日神社

県道と交わる大きな交差点の先に大きな木が茂る場所がある。

永徳元年(1381年)に甲州身延山第十一世沙門律師日朝上人が、諸国行脚の折に村民とともに建立した春日神社だ。

本殿には狛犬ならぬ一対の狛鹿が迎えてくれた。

境内には水神と刻まれた碑があるが、池と思われる場所に水がない。なぜ??

長池松並木

春日神社を出て100mほど行くと、まっすぐな道に見事に松の木が並ぶ、江戸時代らしい道になる。

ここは正徳二年(1712年)に1400本もの松が植樹されたという長池松並木。現在でも340本が残っており、往時の東海道を偲ぶことができる。

本当は道の真ん中を歩きたいところだが、松の根本に江戸日本橋から京三条大橋までの宿場が描かれた碑があり、歩道でも十分に楽しめた。

また松並木に、歌川広重作 舞坂今切真景の絵碑がある。

絵碑の説明にもある通り、本日午後に渡る浜名湖はかつて汽水湖だったが、明応七年(1498年)の地震で遠州灘と繋がり、その切れ口を今切と呼ぶようになった。

今切は何度か車で渡ったことはあったが、歩くのは初めて。楽しみだ。

浪小僧碑

長い長池松並木が終わる場所に可愛らしい子供の像がある。

遠州灘の浜で地引網に真っ黒な小僧が網にかかり、漁師たちは気味悪がり殺そうとすると、小僧は

「私は海の底に住む小僧です。命だけはお助けください。その代わり、恩返しに海が荒れたり風が強くなったりする時は海の底で太鼓を叩いてお知らせします」

と言うので、海に戻してやった。

それ以来、天候の悪いとき、波の音がするようになったそうだ。

浪小僧碑の先で一瞬国道301号線に合流するも、すぐのY字路を左に向かう(写真正面の道)。

東見附跡

そしてここが舞坂宿の江戸口、東見附があった場所になる。

舞坂宿は前述した通り、今切りの渡しを控えた宿場で、大いに賑わったという。文政年間(1818-1830年)に海苔の養殖が盛んになり一大名物になった。

そんな舞坂宿の東見附跡には、宝永六年(1709年)にはすでにあったという石垣を復元していた。

舞坂の一里塚跡

東見附のとなりに舞坂の一里塚の碑があり、極小サイズの南塚が再現されてた。

碑の前には文化十二年(1815年)建立の新町常夜燈。舞坂宿は文化六年(1809年)の元日に宿場の大半を焼き尽くす大火事に見舞われ、それをきっかけに火伏の神である秋葉信仰が広がり、この常夜燈を建てた。

チョウチンアンコウのような近代の灯が取り付けられているので、現在でもその役目を果たしているようだ。

向かいの北塚があった場所にも最近建てたれたのであろう碑があり、

碑の前には舞坂宿の絵図が刻まれていた。

江戸日本橋から六十八里目(約272km)。

舞坂宿の先に、太陽に照らされた浜名湖が見えて、足取りも軽やかに進む。

左に宝珠院、その手前は文化六年(1809年)の大火と同じ年に建設された仲町常夜燈。

宮崎伝左衛門本陣跡

宝珠院のすぐ先に舞坂宿本陣跡の碑。宮崎伝左衛門が務めた本陣があった場所になる。

茗荷屋脇本陣

宮崎伝左衛門本陣跡の前に、目を疑うほど重厚な木造建築がある。こちらが堀江清兵衛が務めた茗荷屋脇本陣だ。

玄関を見ると、どうやら内部を公開しているようだ。案内の方に聞くと「どうぞご覧ください」と承諾をいただき上がらせてもらう。

間口は意外なほど狭かったが、まさに鰻の寝所の如く奥に長く部屋があり、一番奥のここが殿様の間になる。

床の間に高そうな壺があるも、思っていたほど絢爛豪華な感じではないが、まあここは脇本陣。有力大名が泊まる本陣ならばもっと豪華なのかもしれない。

こちらは殿様用の風呂?広い湯船や洗い場などは無く、五右衛門風呂・・・意外と庶民と変わらない?

大小便器はもちろん陶器ではなく漆塗りか。畳が敷かれていて、的が外れたら大失態になりそうだ・・・。

使用禁止って?わかってるよw

江戸時代にもすでにパティオがあったとはオシャレだぜ。

二階には二つの広い部屋があり、奥には大名が乗った駕籠が展示されていた。こんな狭い物に乗って移動してたら、窮屈で仕方がない。大名もたまには歩いていたのかな。

帰り際、案内の方に、

「日本橋から歩いてきましたが、こんな素晴らしい保存状態の脇本陣なんてなかった。素晴らしい状態で残していますね」

と声をかけると、

「いや・・・平成七年に復元しました」

と。。。そりゃこんな状態で残っているはずがないか・・・。

聞くと、明治以降は病院として使われていたそうだが、奥の屋敷は昭和まで残されていて、平成七年に当時の浜名郡舞阪町が2億8千万円をかけて、往時の材料を使いながら復元されたそうだ。

いやー、いいものを見させていただいた。

旅の記録

午前中の部は舞坂宿の茗荷屋脇本陣で終了。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータから、旅の記録を確認してみる。

  • 出発日:2026年6月10日(水)
  • 時 間:7時58分から12時49分(4時間51分)
  • 距 離:15.13km
  • 高 度:77m
  • 天 気:晴れ
  • 気 温:20度
  • 湿 度:78%

本日は朝8時に浜松宿を出発して、約15kmの道のりを4時間50分かけて舞坂宿までを歩いた。

最初は見どころが少なかったが、長池松並木や茗荷屋脇本陣など、舞坂宿周辺は魅力のあるものが多くあり、楽しく歩くことができた。

昼になりお腹が減ってきたので、茗荷屋脇本陣の案内の方に近くで美味しいランチをいただける場所を聞くと、近くの『魚あら』さんを紹介していただいた。

人気の食事処らしく平日なのに15分ほど待ち、二階の座敷に通されると、浜名湖を望む絶景!

素晴らしい景色を見ながら食べる海鮮丼の味もまた最高で、たくさん汗を流したあとのビールも五臓六腑に染み渡った。

大満足で店を出て、次の新居宿に向かうのだが、その様子は次回。

ということで、次の舞坂宿-新居宿編もぜひご覧ください!

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 大福様 おはようございます。もうこのシリーズ、30回になるのですね。祝30回❕
    古民家が中華料理店に変身。しかも休業理由が面白い。浜松も国際都市になったのですね。
    新メニュー登場‼の幟の側に子育て地蔵さま。いかにも今風な良い写真ですね。思わず笑ってしまいました。聖なる場所の象徴とも言える戒壇の設置を巡り争いがあり、多くの死傷者を出したとか・・・。一向一揆のように圧政に対抗して農民が立ち上がるというのなら分かるのですが、同じ仏門同士の争いとは・・・。両者の指導者は絶対に地獄行きだと思います。情けない・・・。二つ御堂のお話、いいですね、秀衡と義経のお話を思い合わせ、秀衡の人柄が偲ばれるようです。スズキの本社住所、浜松市外高塚300番地というのも面白い。私は紀州高野口駅前 〇〇館行と印刷された往復はがきを持っています。昔はおおらかだった・・・。今では郵便番号を間違えただけで×になる世の中ですのに・・・。秋葉神社の総本宮は浜松市天竜区になるのですね。昔連れて行ってもらったことがあります。確か山の中だったように思うのですが・・・。連れて行ってもらうと、人任せになるので、どこら辺にあったのか全然覚えていません。 (^_^;) 熊野神社の焼失と火伏秋葉山常夜灯のお話、漫画チックで面白いですね。熊野の神様が秋葉神社を敬っていなかったのかもですね。スズキ、ヤマハの本社があり、ホンダ発祥の地だと聞いたことがあります。そのうえ麦飯長者・・・浜松はたいした町です。引佐山大悲院観音堂に有名な仏師定朝の観音像があったのですか・・・。一度見てみたい気がします。長池松並木、素敵ですね。浜名湖が地震で外海とつながった話、初めて聞きました。近つ海が琵琶湖、それに対して遠つ海が浜名湖、どちらも昔は同じ湖だったのですね。納得!漁師がかけた網に仏様などがかかったという言い伝えは各地にあるようですが、生きた人がかかったという話は珍しいのでは・・・。街道沿いや昔の商店街?というのは鰻の寝床的な建物が多いですよね。ぐーっと奥まったところで部屋が続き、中庭もあったりして・・・。私も伴侶も親戚にそんな家があって、話をしてみて同じような作りをしていることが分かり、面白く思ったことがあります。便所の件、和式便所を見たことがなかった孫達が、山道に建てられていた小屋を見つけ、あれは何?と聞くのでお便所1と教えてやると、のぞきに行って「どうしてするの? ええーっ、これは絶対に無理!」と二人とも口をそろえて言っていました。 (^-^*) 時代は変わるものですね。 リフォーム前の我が家には和式トイレも一つあったのですが、残しておけばよかったかなと思ったのですが・・・。でも年をとると様式の方がいいよねと洋式に変えてしまいました。 (^-^*) 
    これから本格的な暑さがやって来ます。どうぞお気を付けて・・・。

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