橿木坂碑

階段の脇に橿木坂と書かれた石碑があった。
東海道の難所とされた箱根八里の中でも、特に苦しんだのが橿木坂。江戸時代の旅人は、この厳しさを歌に残した。
『さかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの、涙こぼるる』

登る前から先人たちに厳しいプレッシャーを掛けられましたが、さあ、行ってみよう。

かなり急な階段でしたが登頂。大したことないじゃないか、と思いながら突き当たりを左に折れると、

またも階段・・・。

やっと県道に戻ったと思ったら、その先にまた階段がある(カーブミラーの左側)。

登って、

登って、

さらに登って、

やっと階段が緩やかになってきた。
すでに息は上がり、これまでの蓄積疲労の相まって、足はパンパンに・・・キツい!
『さかをこゆればくるしくて、どんぐりほどの、涙こぼるる』橿木坂は、まさにこの歌の通りの地獄坂だ。

ふと右を向くと、先ほど歩いて来た県道が、くねくねと蛇行しながら登っている。それを見ながら、距離は長くても、階段より坂道の方がよっぽどマシだと思うのだった。

その先で分岐があり、斜め右が見晴し茶屋で、左が旧東海道。
地獄の橿木坂を登り切ったので、見晴し茶屋で名物しそジュースで栄養補給したいところだが、少しずつ雨が強くなって来たので先を急ぐ。

道中はハイキングコースになっていて、石畳の彫りは深くなく少しだけ歩きやすい。

しかし次第に暗くなり、雨がしとしと道はかなり荒れてきて、少しだけ薄気味悪い。

そういえば、日曜日の昼間だというのに、ここまで誰一人ともすれ違わない。
江戸日本橋を出てからというもの、多くの同業者(旧東海道を歩く人ね)とすれ違ったり、並走したりしたが、旧東海道随一の名所であるここ箱根街道なのに・・・なぜ?
まあ、考えてみると、こんな悪天候の日に歩く人など私だけだろう。それにしても寂しいぜ。
この辺りからさらに雨が強くなったため、防滴仕様ではないライカM11での撮影は終了し、この後の撮影はiPhone16 Pro Maxに切り替える。
前回の日没後の撮影でもダメだったが、水にも弱い150万円のカメラってどうなのよ?
まあ、吐き出す絵は最高なのだが・・・。
猿滑坂碑

そして見どころのない石畳を500mほど歩くと、猿滑坂の石碑がある。
この坂は危険で猿でも容易く登れなかったことから、この名前になったそう。

そんな猿滑坂はご覧の通り、橿木坂よりも緩やかで登りやすい。

そして県道を渡って、

その先でもう一上がり。

さらにもう一度登ると、

おーい、上がりすぎでしょ!?

最後に階段を降りて高さ調整。降るんだったら最初から登らなければ良いのに、と、疲れ果てて愚痴が出てしまう。
追込坂碑

階段を降りた先には追込坂の石碑があり、『登り二町余り』と刻まれて、この先の甘酒茶屋までの距離(約220m)を示している。
旧東海道はこの右手にある丸太階段を登るのだが、これに気付かず間違えて直進してしまった。
甘酒茶屋

そのまま真っ直ぐに緩やかな坂を登ると、甘酒と力餅が名物の甘酒茶屋がある。

傍に説明板があり、それによると赤穂浪士の一人、神崎与左五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿の中間にあり、旅人が一休みするには最適な場所だったそうだ。
江戸時代、箱根八里の間には十三軒の茶屋があり、箱根越えの旅人で賑わったという。
本来旧東海道は左側にこの甘酒茶屋を見るのだが、私は道を間違えているので右側に見ている。この時点でもまだ道を間違えたことに気付いていない。

そして旧道との合流点のこの場所でやっと気付くも、すでに戻る気力はなく、ここから合流する。
白水坂碑

石畳に復帰してすぐにあったのが白水坂。
ここは豊富秀吉軍が石落としに遭い引き返したことから、城見ず坂と呼ばれたのが転じて白水坂という名になったそうだ。

そんな白水坂は大した登り坂ではなかったが、雨がさらに強くなり、足が滑り石に掬われる場面が多く大変だった。

旧東海道の石畳はここで鋭角に曲がり、辺りはさらに暗くなる。
カメラ性能により写真は明るく見えるが、実際には相当暗く、さらに霧も立ち込めてきた。

この石畳の入り口に熊出没注意の喚起があったことを思い出し、カサカサと雨で葉が揺れるたびに後ろを振り返ってしまう。今年は熊による被害が多いし、怖いなあ・・・。
大声を出さない、走って逃げない、冷静に立ち去るって書いてあったが、いざ出没したら、絶対に慌てて走り出してしまいそうだ。
天ケ石碑

そして鋭角の曲がり角の先には天ケ石坂碑がある。
石碑の後ろに雨蛙に似ていると言われているあまが石が見えるが、歩いている時は気付かなかった。

旧東海道の箱根路は、江戸の初めにそれまでの尾根伝いの湯坂路に替わり整備された。
当初は箱根に群生するハコネダケという細竹を毎年敷き詰めていたが、費用と労力がかかることから、永保八年(1680年)に石畳に変えられた。
その後、文久八年(1863年)、徳川十四代将軍家茂が上洛する際に全面的に改修されたそうだ。

そんな石畳だが、現代人の柔な私の足では歩きづらく、となりにある緩やかな階段状の場所を歩き進めることにした。
箱根馬子唄碑

そんな石畳にすっかり飽きてしまった頃、正面に立派な石碑が現れた。
これは箱根馬子唄碑。すでに建てられてから時間が経過しているため、何て書いてあるのか分かりづらいのだが、
『箱根八里は馬でも越すが、こすに越されぬ大井川』
と有名な歌が刻まれているようだ。
箱根は馬でも越すけど、大井川はそれより大変だって!?
バカにすんな、いつも見慣れている大井川なんてものの数十分で渡れるけど、箱根路はここまでに六時間近く歩いているけどまだ着かないんだよ!
疲れ果てて性格が捻くれまくっている・・・。

そんな箱根馬子唄碑の先で道が開け、しばらくぶりに道路と交差。看板に元箱根まで十五分と書いてあり、元気が湧いてきた。

交差点を渡ると、下り坂になり、

すぐまた道路と交差し、その真ん中を進むのが旧東海道になる。

そしてゴツゴツ石の最後の難関を抜けて、

歩道橋を渡り、突き当たりを左に曲がる。
ケンペル・バーニー碑

するとケンペル・バーニー碑という立派な石碑がある。

ドイツの博物学者のケンペルが世界に箱根の美しさを紹介し、イギリスの貿易商バーニーはこの地に別荘を構えたそうだ。

ケンペル・バーニー碑の先で久々のアスファルトの道になる。

霧で霞んだその先に、箱根名物の大鳥居が見えてきた。
賽の河原

その大鳥居の横には賽の河原と呼ばれる場所がある。
ここは地蔵信仰の霊地として多くの石仏石塔が並んでおり、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めていた。

しかし明治に入ると仏教の排除から多くの石仏が失われたそうだが、それでもこの規模は凄かった。

そしてここから芦ノ湖を見てみたが、ご覧の通り近くにある桟橋すらもほぼ見えない感じ。
それでも、外国人をはじめとするかなりの数の観光客がいたのにはびっくりだった。

旧東海道は賽の河原より国道1号線と合流したが、すぐの場所で左に逸れる。
葭原久保の一里塚跡

国道を離れてすぐの芦ノ湖の横にあったのが葭原久保の一里塚跡。
現在一里塚は残っていないが、石碑と古びた説明看板が設置してあった。

緑の文字の石碑とはかなり斬新!?
江戸日本橋から二十四里(約96km)。いよいよ次の一里塚で日本橋から100kmに到達する。
旧東海道箱根杉並木碑

葭原久保の一里塚跡の先から箱根杉並木になる。
この頃になると目的地があとわずかなので、気持ちにも余裕が生まれ、霧に包まれた杉林がなんとも幻想的だなあ、と思いながら足を進める。

この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりと大切な役目を果たしてきた。

そんな箱根杉並木とはここで別れ、

国道1号線を渡る。

そして渡ったすぐ先のこの県立恩賜箱根公園の看板を右折し、

すぐに左折。

この道の突き当たりにあるのが今回の目的地になる。
箱根関所

そして、ついに本日の目的地である箱根の関所に到着した。
箱根関所は江戸時代の雰囲気を忠実に再現されていて見どころが多い場所だが、この日は大規模な工事が行われていた。
雨によりびしょ濡れになった服で入るのも憚られるので、次回出発する時にじっくり観覧したいと思う。
歩みの記録

歩きにくい石畳や階段の連続が果てしなく続いた橿木坂、そして降り落ちた雨と霧に包まれて暗く険しい細道。長く険しい箱根路だったが、やっとの思いで目的地である箱根関所に到着した。
出発は小田原市だったが、もう遠い過去のことのように感じてしまう。
これで東海道一の難所と謳われた箱根を踏破した!
では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータから、歩みの記録を見てみる。
- 出発日:2025年12月21日(日)
- 時 間:8時13分から14時36分(6時間23分)
- 距 離:17.72km
- 高 度:988m
- 天 気:雨
- 気 温:13度
- 湿 度:87%
小田原宿を8時過ぎに出発して、箱根宿に到着したのが14時36分。17.7kmを6時間23分かけて踏破した。
そして今回の注目点は上昇した高度。何と約1000mも上がったのだ!
半世紀以上を生きているが、生涯で一番の高さを自らの脚で上がったことは間違いない。いやー、意外と登れちゃうもんなんだなあ。
ということで、達成感を存分に味わった今回の旅だった。
さて、次回は箱根八里の後半戦。箱根宿を出発して三島宿を目指すので、興味のある方は下のバナーから続きをご覧ください。
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