大福のブログ

ライカを持って旧東海道を歩く【第10回】(小田原宿→箱根宿)

目次

石祠道祖神

白山神社の先の右側には、二体続けて石祠道祖神がある。この後も多く見ることができ、厳しい山登りの励みになった。

正眼寺

その石祠道祖神の先にあるのが正眼寺。

階段を登って振り返ると・・・

大きなお顔のお地蔵様にびっくり!

『曽我兄弟の仇討ち』として有名な曽我兄弟の地蔵尊とのこと。よく見ると愛らしいお顔をしていた。

石祠道祖神

そしてまたまた二連続で道祖神が祀られている。

様々な表情で私たち旅人を和ませてくれる道祖神。こちらは男女双体の道祖神が手を繋ぎ、ラブラブな雰囲気にほっこりした。

湯本茶屋の一里塚

そんなラブラブ道祖神のすぐ先の、この辺りにあったのが湯本茶屋の一里塚。

街道脇には旧箱根街道一里塚碑が建っていた。

この街道は紛れもなく旧東海道だが、箱根街道という名称の方がよく使われているようだ。

江戸日本橋を出発してから二十二里(約88km)を歩いてきた。

箱根旧街道入口

旧東海道は湯本茶屋の一里塚の先のここを右に入る。

箱根街道は江戸時代の石畳が多く残されているが、ここがその一つ目の入り口になる。

馬の飲み水桶

箱根旧街道の入口にあるのが民家の軒先の井戸・・・ではない。

この辺りは江戸時代馬立場と言って馬子が一休みした場所で、この桶には山から引いた水が貯められており、馬の飲み水になっていた。

さて、石畳はご覧の感じで雰囲気は最高なのだが、雨に濡れた石が滑り歩きにくい。

軽いランニングシューズを履いているが、その分素材は頼りなく、滑って石の隙間に指が挟まり痛っ!となる。

こんな道を藁草履で歩いていた江戸時代の旅人の凄さを痛感した。

そしてさるはしを渡り、

石畳を登ると、

福寿院の脇で先ほどの県道にふたたび合流する。

最初の石畳は総延長255mの短い区間で楽しめたが、この後、幾多の苦労を味わうことになるのだった。

合流後の県道はご覧の通り急な登り下りは無いのだが、行き交う車は結構な速度を出しており、歩道がなく脇を歩く私は冷や汗もの。

観音坂碑

曲がりくねった道をしばらく歩くと、ホテル南風荘の入口付近に『観音坂 登二町許』と刻まれた石碑があった。

ここにはかつて観音堂があり、ここから観音坂と呼ばれる登りが二町(約200m)ある、という目印だった。

葛原坂

しばらく歩くと、カーブの外側に立て看板がある。

ここは葛原坂。先ほどの観音坂は大した坂道ではなかったが、クズの葉が生い茂る葛原坂も脚に負担をかける程ではなかった。

まあ、坂の名前が付いているので江戸時代は急な坂だったが、長い年月の末に緩やかに改良されたのだろう。

葛原坂を登っていると、遠くから太鼓の鼓動が聞こえてきて、次第に音が大きくなってきた。

音の主はその先にあったやすらぎ会館から。

どうやらド派手な装飾で眼を引く天聖院の施設のようだ。

そういえば、今年完走した静岡マラソンでも、随所にあった和太鼓の演奏で勇気をもらった。日本人にとって太鼓の鼓動は元気の源。

天聖院から少し歩くと次の目的地が見えてきた。

初花ノ瀑碑

それがこの石碑。

よく見えないが初花ノ瀑碑の書いてあるそうで、向かい側の山肌に滝が見えようなのだが・・・。

枯渇しているのか、この日は残念ながら見ることができなかった。

この辺りの道はさらに狭いのだが温泉地や芦ノ湖に向かう車は多く、歩行者は車の邪魔にならぬよう退避を強いられる。

鎖雲寺

こちらは鎖雲寺の入口。

鎖雲寺は、江戸時代の初めに早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺で、この寺には歌舞伎の『箱根霊験記』で有名な勝五郎と初花の墓があるそうだ。

箱根路は道中にコンビニがなく、ちょうど催してきた時にバイオトイレがあったので、ここで身を軽くする。

バイオトイレの先に立派な赤鳥居の大天狗山神社があるのだが、この付近の坂道は特にキツく、少しずつ体力を消耗していく。

さらに悪いことに、また雨がシトシトと降り出してきた。

女転し坂

大天狗山神社前の坂を登っていると、立て看板がある。

女転し坂(おなごろがしざか)という物騒な名前が付けられたこの坂は、むかし、女性が落馬して谷底に落ちて命を落としてしまったことから、この名前がついたそうだ。

男性だって落馬して命を落とした者がいたはずだが、当時は馬に乗る女性が少なかったからなのだろう。

江戸時代の馬は現在の車。現在は女性も皆車を運転する時代だが、昭和の時代は合流で割り込みをさせなかったり、無茶な運転をすると「やっぱり女性だ」と、訳のわからないことを言っていたオッサンがいた。それと一緒か!?

そして、東京電力畑宿発電所看板の先の右側の、

この階段を登るのが旧東海道になる。

割石坂碑

この階段の名称は割石坂と言い、脇には割石坂碑が建っていた。

正眼寺の解説で出てきた曽我兄弟の一人曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう際、腰の刀の切れ味を試そうと、巨石を真っ二つに切り割ったところと伝えられているそうだ。

江戸時代の石畳

階段には石が敷き詰められ、雰囲気が良い。

そして看板の通り、この場所からは江戸時代の石畳がそのまま残っている。

足が滑り実に歩きにくいのだが、京三条大橋に向かう江戸の旅人と同じ道、同じ石畳を歩いていると考えると、この雨の中の厳しい山道でも心が晴れる。

そんな江戸時代の石畳は300mほどで終了し、ふたたび県道に戻る。

接待茶屋

その県道との合流地点にかつてあったのが接待茶屋。

東海一の難所といわれた箱根路には数ヶ所の有料茶屋があったが、営業は昼間だけ。そんな中、文政七年(1824年)に無料で粥や焚火を提供する接待所がここに開設された。

そんな接待茶屋は昭和四十五年までこの場所にあったそうで、薄汚れた説明板にありし日の写真が掲載されていた。

県道に合流後、少し歩いた先のここを左に入り石畳を歩くのだが、残念ながら2025年12月現在は工事中のため通行止めになっていた。

旧東海道を歩く人が多いことを想定して迂回路を示す地図があり、その通りに進む(現在地が分からず理解するのに時間がかかった)。

数百mほど歩き、この右カーブの途中で旧東海道の石畳から来た道と合流する。

本来ならば、石畳を抜けてこんな感じで県道に合流することになる。

道祖神

その合流地点のすぐ先に、久々の道祖神がある。

建立からかなりの月日が経っているであろう道祖神は、畑宿村境の塞神として祀られているそうだ。

畑宿本陣跡

道祖神の先にあったのが畑宿本陣跡。屋号を茗荷屋と呼ばれた、地元の名主の本陣屋敷跡になる。

家屋は大正元年に焼失してしまったが、この奥の日本庭園はそのままの姿で残されているようだ。

庚申塔

畑宿本陣跡の先の階段を上がって行くと、

段上に万治元年(1658年)造立の青面金剛像が祀られていた。

庚申塔の先で県道は右に折れるが、ここを斜め左に向かうのが旧東海道。

箱根路東海道の碑を右手に見ながら、この細い石畳を歩き進む。

畑宿の一里塚

石畳みを再現30mほど進むと、現れたのが畑宿の一里塚。

こちらの一里塚は、何と二つの塚が当時のままの形で残されていた。

今まで二十箇所を超える一里塚を見てきたが、これまでで一番の保存状態。いやー、イイもの見させていただいた。

ただ、ライカM11に付けてある35mmの標準域では画角が足りないので両塚を一緒に撮れない。ということで、iPhoneの超広角で撮ったのだが、周辺の歪みが酷すぎる・・・。

空中東海道

これまでの場所よりもゴツゴツして歩きづらい石畳を懸命に歩き、

ここを右に曲がると、

橋??

何と、石畳の下を国道1号線が走る空中東海道。山を切り拓いて国道を整備したのか、とにかく歩く者にとっては楽しい演出だった。

下の国道1号線は箱根駅伝の走路でもあるため、駅伝中継でぜひとも確認したい。

旧東海道は引き続き石畳の道を進む。

そんな道中には解説があり、石畳は斜めの排水路になっており、上を流れてきた雨水を石畳の外に追い出す工夫がされているそうだ。

また、排水路は上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷いており、段差を造り出すという形をしているそうで、水は大きな石の側面を伝わり、外側の沢へと流れ出る構造になっているとのこと。江戸時代の土木工事の英知に驚かされた。

そんな石畳を300mほど歩き、この階段を登ると、

県道に復帰するのだが、県道にも石畳の装飾がなされていた。

すぐに箱根七曲りの最初のカーブに差し掛かり、曲がり切った先に見える、

この階段を登る。

階段を上がったら左に出てこの高架橋をくぐり、

さらにもう一つくぐる。

そしてカーブの先に見えるあの階段を登って行く。

今回は見どころが多く画像の読み込みが追いつかないため、3ページに分けた。次のページに行くには下の③をクリック願います。

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