大福のブログ

ライカを持って旧東海道を歩く【第11回】(箱根宿→三島宿)

先週は東海道五十三次の前半の花形、小田原宿から箱根宿までを歩きたが、途中から雨が降り出し、箱根路は修行に・・・。

正直、かなりキツかったが、今後忘れられないであろう程の経験になった。

さて、今回は箱根八里の後半、箱根宿から三島宿までの区間を歩く。雨に祟られた先週とは違い、年末年始の長期連休中なので、天気の良い日を選んだ。

では、前回の到着地である箱根関所の入り口から、ライカM11を首からぶら下げて、いざ出発!

目次

箱根関所

ということで、先週の到着地である箱根関所にやってきた。

雨と霧に見舞われた先週から一転、本日は雲の隙間から時より太陽が顔を出す。

先週は霧でまったく見えなかった関所入り口横の芦ノ湖もご覧の通り、今日はしっかり見えている。

関所とは何をする場所だったかというと、交通の要所に設置され、人や荷物の行き来を調べたり、通行税(関銭)を徴収したりした場所になる。

旧東海道ではここ箱根関所と新居関所の二箇所に設置され、脇街道の気賀関所と含めて東海道三大関所と呼ばれていた。

では、箱根関所に入ってみる。

江戸口御門から入り、右手にあるのが大番所になる。

ここは関所の一番主要な場所で、通行するに人々(特に女性)の取り調べや監視を行う役人詰所だった。

その向かい側には足軽番所(写真撮り忘れました)がある。

そしてこちらが京口御門。

江戸時代の雰囲気がよく再現されており、映えスポットとして日本人はもとより、外国人にも非常に人気のあるスポットだということがよくわかる。

ちなみに場内の建物内に入るには観覧料がかかるが、柵外からの撮影や通り抜けだけならば料金はかからない。

京口御門を出ると、和の雰囲気がある商店街を抜けて、

高札看板を再現した箱根関所の看板を右に曲がり、

国道1号線に合流する。

本陣はふや跡

国道1号線に入り、すぐ右側に箱根ホテルがある。ここが江戸時代箱根宿に六軒あった本陣の一つ、本陣はふやがあった場所になる。

樹齢四百年のカエデがあるそうだが、宿泊しないと見れないのか、正面玄関からは確認できなかった。

箱根駅伝ミュージアム

箱根ホテルのすぐ先に箱根駅伝ミュージアムなるものがあった。

今回の旅では基本的に江戸時代やそれ以前にあった施設などを紹介しているが、現代を生きる私たちにとって箱根といえばやっぱり駅伝。

ここには歴代の名場面の写真や記録、選手の愛用品や優勝杯などを紹介展示しているそうだ。

この日は12月29日ということで、数日後には多くの駅伝ファンが足を運ぶことだろう。さて、来年はどこの大学が優勝するのか(結果は青学が完全優勝)。

旧東海道はこの交差点を右に曲がるのだが、その前に信号左手の場所に立ち寄る。

山の神

歴史を感じる山の神の石碑・・・箱根駅伝5区の名物山登りで圧倒的な強さを誇った、順天堂大今井選手、東洋大柏原選手、青山学院大神野選手が祀られている?

もちろん違う。

こちらはその箱根駅伝山の神の語源となった元祖、というか本物の山の神で、馬頭観音と地蔵が安置されていた。

箱根駅伝第5区を走るランナーのみなさんは、ぜひともお参りを。

ということで、あらためて順路では先ほどの交差点からだと右に鈍角に曲がり、写真正面の方向に進む。

そして道は右に曲がっているが、旧東海道はそのまま直進。

すると右側に次の目的地が見えてきた。

芦川の石仏群

こちらは芦川の石仏群と呼ばれる場所で、多くの石仏、石塔が安置されている。

この庚申塔は箱根でもっとも古いもので、建立は万治元年(1658年)とのこと。当時造立にかかわった地元の人々の名前が彫られているそうだ。

江戸の時代から京を目指す旅人をずっと見守っていると思うと、なんだか感慨深い。

向坂・赤石坂・釜石坂・風越坂の石畳

芦川の石仏群を過ぎると、本日最初の石畳になる。

周囲は自然のままの杉並木で、石畳は江戸時代に敷かれたものがそのまま使われているのか、少し荒れていた。

この辺りは箱根外輪山の箱根峠へと続く、向坂と呼ばれる上り坂。ゴツゴツした石畳のせいで、最初からちょっと苦労して歩く。

向坂を登った先には国道1号線があり、低いガードをくぐる。

ちなみにガード下に見える二人の方は、私を追い抜いた同業者(旧東海道を歩く同志のこと)。前回は雨の中だったので、同業者とはまったく合わなかったが、今回はこの後何人もの方と遭遇することになる。

国道を抜けた先にもまた坂道。こちらは赤石坂という名前が付けられている。

赤石坂を登り切ると、次は右カーブの上り坂。ここは釜石坂という名称だそう。

そしてここが挟石坂。足元が不安定なので結構厳しい坂道だったが、それぞれの坂に名称があることで次の目標ができるので、坂を登る励みになる。

最後にこの階段を駆け上がると、

国道1号線に復帰。今回も旅の序盤からなかなかハードだ。

静岡県へ

国道1号線はちょうど分岐になっているが、その一本を横断して向こう側の道路に移動する。ここは非常に危険なので注意が必要。出来れば歩道橋を設置してもらいたいのだが・・・。

しばらく国道1号線の細い歩道を歩き、箱根くらかけゴルフ場の看板があるY字路を左に向かう。

坂を登ると分岐があるので、ここを右に曲がる。

この辺りが本日の道中の頂点で、ここから三島宿までは下りになる。

出発時は雲が多かったが、次第に雲が減り青空が多くなってきて、富士山が顔を出した。静岡県民にとっても富士山を見ながら歩けるのは嬉しい限り。

そして坂を下ると、国道1号線の最高標高として有名な箱根峠の交差点が見えてきた。

川崎宿手前の多摩川を渡ってからずっと歩いてきた神奈川県だが、この交差点から静岡県に入る。

「静岡に帰って来たどー!」

いやいや、今日の朝、静岡の自宅を出たんだけど・・・。

箱根峠の横断歩道を渡ると、

歩道は石畳の装飾が施されるようになり、三島市内ではこの後ずっとこの装飾が旧東海道の目印になっていた。

すぐに石畳風の歩道に沿って右に曲がり、冠木門をくぐると、

新箱根八里記念碑という説明板があるのだが・・・。

あっ!このボウボウのススキの中にあるこれか・・・。

橋田壽賀子さんや黒柳徹子さんなどの有名芸能人がデザインしたという地蔵も、こんな有様では可哀想。

管理は国交相? なんとかしてくれー。

その後、旧東海道は本来ならば右に曲がるのだが、令和元年十月の台風による被害のため通行止めになっており、迂回路の国道1号線を進む。

まあ、主要道ではないので復旧は後回しになるのはわかるが、六年以上も復旧されないとは如何なものかと・・・。

ということで、迂回路をしばらく歩き、

石畳風の歩道から分かる通り、ここが復帰地点になる。

そして旧東海道になった国道1号線を少し歩き、ここを右に曲がり土の道に入る。

接待茶屋の一里塚

土道の入り口にあるのが接待茶屋の一里塚(別名 山中新田の一里塚)。ご覧の通り、南塚が現存していた。

江戸日本橋から二十六里目(約104km)。

尚、一里は4kmとして計算するのが一般的だが、厳密には3.92727kmなので、二十六里は102.1kmということになり、ここ接待茶屋の一里塚は江戸日本橋から100kmを超えた初めての一里塚ということになる。

ちなみに、前回紹介した箱根宿手前の葭原久保の一里塚が二十四里目で、こちら接待茶屋の一里塚が二十六里目だが、二十五里目の一里塚は?

もしかして、先ほど迂回をしたから、元来の旧東海道にあるのかもしれない、と思いインターネットで調べてみたがそこにも無いらしい。

そういえば、葭原久保の一里塚からここまで、二里(約8km)あるはずなのに、やけに短かったような・・・。Googleマップで調べてみると、二里あるはずが一里とちょっと(1.184里=4.65km)しかない。

うーん、二十五里は元々無かったのか。それとも東海道に一里塚を設置した後、この区間が新道に付け替えられて短くなったのか。謎が深まる。

ご存知の方がいたら、ぜひコメントで御教授を。

徳川有徳公遺蹟碑

接待茶屋の一里塚のとなりには、徳川有徳公遺蹟碑。

徳川有徳とは、暴れん坊将軍で有名な徳川八代将軍吉宗のこと。吉宗はここにあった茶屋で休憩をして、代金を永楽銭で支払ったそうで、その茶屋は永楽屋と呼ばれた。

ちなみに永楽銭とは室町時代に大量に輸入された中国の通貨で、江戸時代初頭まで標準貨幣として使われた外貨になる。

かぶと石

徳川有徳公遺蹟碑の向かいにはかぶと石がある。

となりには説明板があり、それによると、この石は兜を伏せたような形をしていることから、かぶと石と言われたそう。

また、豊臣秀吉が小田原征伐の際に休憩し、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石と呼ばれるようになったとも言われているそうだ。

実はこの石は昭和の初めまで兜石坂(先ほど迂回したため今回は歩けなかった場所)にあったが、国道1号線の拡幅工事の際にここに移設された。

かぶと石の先がY字路になっているが、旧東海道は看板に書かれている三島宿の方向、左側を進む。

旧東海道はご覧の通り樹木が鬱蒼と茂る森の中。12月末でもこのような状態なので、夏場はさらに葉が茂り歩くのに苦労しそうだ。

そしてこの左側に次の目的地がある。

明治天皇御小休趾碑

こちらは明治天皇御小休趾碑。かつてこの場所に茶屋があり、そこで明治天皇が休憩をされた。

このような藪の中なので、現在茶屋はないが、足元をよく見ると茶屋の土台が残っていた。

その茶屋からは遥かに駿河湾が望めたそうだが、現在は藪に囲まれて空しか見えない。

明治天皇御小休趾碑を過ぎると、またも石畳になる。

無骨なここの石畳は往時のものなのだろうか。

この辺りまで来ると、正直歩きにくい石畳はもう勘弁してほしいと思うのだが、この後も石畳は延々と続くのだった・・・。

念仏石

明治天皇御小休趾碑を出て石原坂を登ると、右手にある突き出た石が念仏石。

この石の前には石碑があり、そこには『南無阿弥陀仏・宗閑寺』と書かれている。

説明板によると、旅の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたとのこと。

念仏石を過ぎて石畳をしばらく歩くと、やがて車の走行音が聞こえ、

明るい場所に出てた。

実は先ほど別れた国道1号線がとなりを通っていて、この分岐を左に曲がると国道に復帰するのだが、旧東海道は道なり。この後、道中は道の駅やコンビニがないため、それを案じてここに設置されたのであろうトイレで身を軽くする。

すぐにY字路があり、ここを左に進む。

出発時は雲が多かったのだが、昼には太陽の光が燦々と降り注ぎ、杉並木の影がクッキリと石畳に写し出されていた。

杉並木が終わって左手が開けてくると、この石畳とももうすぐお別れ。

民家の傍を歩き、

この私有地のようなところを左に折れ、

この丁字路を右に曲がると、久しぶりに国道1号線に復帰した。ここはその後に備えて、先に見える横断歩道を渡る。

そして国道を下ると歩道は強制的に左に曲げられ、

階段を下ると、

おーい、またも石畳かよ・・・。

ただ、小枯木坂と呼ばれるこの石畳はほぼ真っ直ぐな線形で、杉並木の間を歩くのが結構気持ちがよく、散歩をする何人かの地元の方とすれ違う。

最後にS字になり、左からアスファルトの道が合流。出来ればそこを歩きたいのだが、旧東海道は右の石畳を歩かなければならない。

雲助徳利の墓

その先にあるのが、勇者に何度もしばかれて亡くなったスライムの墓・・・では、ない。

墓に描かれているのはスライムではなく徳利(とっくり)。

この墓はむかしから、雲助の墓と言われており、墓石には久四郎という名前が刻まれている。

松谷久四郎と名乗った彼は西国大名の剣道指南役だったが、大酒飲みのため事件を起こして国外追放になり、箱根で雲助(江戸時代に籠をかついだ住所不定の人足)の仲間になった。

そして、雲助をいじめる武士をこらしめたり雲助たちの代わりに読み書きをしたりと相談に乗ったりするうちに、雲助仲間から親分以上に慕われるようになった。

しかし、普段は酒を飲んでいたので早死してしまった。

そこで雲助仲間が金を出し合いこの立派なお墓を建て、墓に酒と盃、徳利を刻み供養した。

尚、この墓は当初接待茶屋の一里塚付近にあったのだが、酒飲みの墓なのでふらふらここに移って来たようだ。

雲助徳利の墓の前で石畳は終了し、

緩い坂を登ると国道1号線とまたも合流する。

ちなみにこの後600mほどこの道路を歩くのだが、日本を代表する幹線の国道1号線なのに車がほぼ通らなかった。

尚、この合流地点には史跡箱根旧街道碑の書かれた石碑が建っていた。

駒形諏訪神社

その合流地点の向かいには、山中城の守護神だった駒形諏訪神社がある。

境内には樹齢六百年とも言われている大きなカシの木があるそうだが、石段がキツそうなので、ここで手を合わせて先を急ぐ。

宗閑寺

駒形諏訪神社のすぐ先にあるのが宗閑寺。

境内には山中城攻防で戦死した両軍武将の墓があるのだが、ご覧の通りかなり古く文字が見えずわかりらなかった。

そういえば、先ほどの念仏石の前の石碑に宗閑寺の名前が刻まれていたが、このお寺のことだったのか。

宗閑寺近くのこのY字路を右方向、石畳の装飾が施された道に行く。

芝切地蔵

坂道を下っていくと右側にあるのが、山中新田の守護地蔵の芝切地蔵。

境内には多くのお地蔵様が祀られていたが、芝切地蔵はどのお方?

愛嬌のあるお姿のこのお方? いやお地蔵さんじゃないか。

ここ芝切地蔵はかつて、縁日の小麦まんじゅうが評判だったそうで、このお方はそのまんじゅうを頬張り、美味しい!と言っているのかな!?

そして旧東海道は国道1号線の横断歩道を渡る。

山中城址

横断歩道を渡り振り返ると山中城址の入り口がある。

山中城は後北条氏の山城で、障子堀と言われるワッフルのような形状をした防御施設が特徴で、日本百名城にも選ばれている。

静岡に住む身としては、一度は訪れておきたいと思っていたが、立ち寄りじっくりと観覧するには時間がなく、泣く泣く通過。

今度時間がある時にゆっくりと見させていただこう。

そして旧東海道はまたまた杉並木の石畳に。

ただ、先ほどよりも歩きやすい石畳になっているような気がする。

説明板によると、この辺りは復元・整備された区間のようで、それで歩きやすくなっていたようだ。

整備前の写真を見ると石が歯抜けになり、しかも丸く立体的になっている。四百年という長い月日の末に石の角が落ちて丸くなったのだろう。

箱根八里碑と馬頭観音

こちらは箱根八里碑。作家の司馬遼太郎さんが、箱根旧街道を歩く人々の旅のひとときの憩いになれば、と思いメッセージを埋め込んだ石碑だそうだ。

また、となりには馬頭観音があった。

馬頭観音とは、頭の上に馬の頭を載せた忿怒の姿をとる観音菩薩。馬の守護仏として、牛馬の無病息災や旅の安全、交通祈願、そして亡くなった馬の供養として信仰されていた。

江戸から箱根までは道路端に道祖神が多く祀られていたが、静岡県に入ると道祖神に代わり、馬頭観音や地蔵尊が多く祀られるようになった。

ここの石畳は約350mで終了し、国道1号線に合流。

合流地点の右手にはドラゴンキャッスルなる巨大アスレチックタワーがあり、本日は年末年始の長期連休ということもあり、子供たちのはしゃぐ声が響いていた。

そして山中城口の交差点を渡り、旧東海道は直進し、

ここを下りると、

完全に飽きてしまった石畳。ここは330mほどの長さになる。

空中東海道

石畳をしばらく歩くと、両側にフェンスがある見覚えある景色。

そう、箱根路の登りでもあった、箱根名物空中東海道だ。

眼下に行き交う車とのミスマッチ感がたまらない。

ただ、前回の県道とは違い、この下は交通の要所国道1号線ということで、石畳は固められて、その両端の盛り土やフェンスも高く、石などの落下を防いでいた。

国道を渡ると道路に出るのでここを慎重に横断する。

ちなみに、この手前には『横断歩道を渡りましょう』という看板があるが、Googleマップで探しても向こう側に行ける横断歩道や歩道橋が無い。

ガイドブックにも『横断する』と書いてあるので仕方なく横断した。

そして写真のガードレースの隙間から歩道に入り、

すぐ右の階段を降りる。

下った先はこんな感じで、最初は石畳の上に落ち葉が積もり歩きやすいのだが、

次第に石畳が顕になる。

そして、場所によっては石畳をコンクリートで固めてあった。

石畳は340mほどで一旦終了し、国道1号線と合流する。

右手には静岡では有名な三島スカイウォークがあり、その先には富士山が見えた。

舗装路は一瞬で終わり、ここで左に入り土道へ行き、

すぐに石畳になると、

次の目的地が見えてきた。

馬頭観音

本日二体目、そして江戸日本橋から数えても二体目の馬頭観音だ。

こちらは嗣中で安置されていて、綺麗なお身体をしておられた。

途中、三島市街(?)や、箱根連山を望めたり、

冬でも青々とした野菜畑があったりと、この石畳は景色を楽しむことができた。

笹原の一里塚

そんな石畳も終わりに近づくと、左側に笹原の一里塚がある。

こちらの一里塚はご覧の通り南塚が当時の姿を残していた。

せっかく天気が良くなったので、立派な一里塚を順光で、

どう?素晴らしい保存状態でしょ??

江戸日本橋から二十七里目(約108km)。我ながら凄い距離を歩いて来たと感心する。

笹原の一里塚の先で、やっと石畳は終わりになる。

そしてすぐに国道1号線を右の横断歩道を使って横断する。

こわめし坂

国道を渡ると、道はダラダラ下るのだが、

ここで一気に奈落の底へ。写真ではわかりにくいがとにかく凄い下り坂だ。

住宅の土台部分の角度を見れば伝わるかな。

こわめし坂は箱根西坂最大の難所として、古くから旅人に恐れられていて、あまりの急坂で、背負っていた米が汗と熱気で蒸されて強飯(こわめし=おこわ)になったことが名前の由来だそう。

その後も急な下り坂は長く続き、登りじゃなくて良かった、と強く思った。

長かったこわめし坂はここでやっと終わり、国道1号線に合流する。

道中はこんな感じ。平坦な道は良い、そしてアスファルトの道は良いなあ、と思いながら足を進める。

そして次の目的地に到着した。

松雲寺

ここ松雲寺は江戸時代に寺本陣だったらしく、生麦事件を起こした島津久光や、徳川十五代将軍慶喜も休息したそうだ。

また、入り口の石碑からもわかる通り、明治天皇が休息をして、ここで富士山を眺めたという。

その後はしばらく国道1号線を歩き、このS字区間で右手を見ると、

富士山を見ることができた。

朝からなかなか雲に隠れて全容は見せてくれなかったが、本日の旅も後半になり、やっとご褒美をくれた。

旧東海道はこのパイプフェンスの切れ間から右に入って坂を下り、

このY字路を右に進む。

そして右に見える石碑が次の目的地。

史跡法善寺旧址碑

ここはかつて法善寺という、元禄十七年(1704年)建立のお寺があった場所になる。

法善寺碑を過ぎたらここを右折し、

細い道を下る。

ちなみに、左にあるこの石碑は、足利尊氏が創建した七面堂址碑になる。

坂を下り切ったら、そのまま下道に合流し、

その先の子供の森公園入口交差点を右に渡ると、次の目的地が見えた。

出兵馬記念碑

正月に向けてきれいなしめ縄が付けられているのは、出兵馬記念碑。戦時中に徴兵され、外地に出兵した軍馬の供養塔になる。

それにしても三島市は、この出兵馬記念碑や馬頭観音など馬が多く祀られているが、馬とどのような関わりがあるのだろう。

出兵馬記念碑のすぐ先のこの旧な階段を上がると次の目的地。すでにかなり歩いてきた私にとってこの坂は厳しいが、頑張って登ってみる。

山神社

こちらは山神社。山を納め司る神と仰がれ、山林、農耕、殖産の徳を持つ五穀豊穣の守護神になる。

説明板によると、本殿は精巧で彫刻に彩色も施されていると書かれているので、写真は本殿ではないか、もしくは正面でない可能性が高い。

六地蔵

山神社の先には六地蔵。

もちろん地蔵さまが六体・・・いや、その倍以上はいらっしゃるぞ!?

みなさん花が手向けられ、赤い頭巾と涎掛けでオシャレして、とっても可愛らしかった。

臼転坂

六地蔵の先のここを右に上がり、旧東海道は土道に入る。

土道は石畳に変わり、臼転坂と呼ばれる坂を下る。

臼が転がるほどの急坂だったそうだが、こわめし坂を下ってきた私には、そこまで厳しい坂に感じなかった。

石畳はここで終わり、そのままその先に見える舗装路に合流する。

時刻は15時。今日もペースは遅いのだが、なんとか日が暮れる前に三島宿に辿り着けそうだ。

普門庵

舗装路に入ると、左にあるのが普門庵。

元禄十四年(1701年)、鉄牛という僧侶が聖観音菩薩像を背負ってきたが、この場所で突然重くなり動けなくなったため、やむを得なくここに安置して本尊としたそうだ。

そんな聖観音菩薩像は、写真のガラス戸越し安置されているのだが、その表情が非常にリアルで驚いた。

敷地は狭いながらも、境内には多数の石仏石塔が安置されていた。

宗福寺

普門庵の先には、山中城の戦いで戦死した秀吉軍将兵の供養時の宗福寺がある。

山門右手には享保九年(1724年)建立の萬霊塔が建っていた。

宗福寺の300mほど先で道は左に曲がるのだが、旧東海道はここを右に外れて細い道へ。

そしてすぐ先の点線の白線の場所を左折し、

その先の立派な箱根路碑がある場所で国道1号線と合流する。

ここが箱根路の入り口ということで、長かった下り坂もここで終了し、三島宿までの残りは平坦な道が続くことになる。

初音ケ原松並木

国道1号線沿いを少し歩くと、ここから松並木に。ここは初音ケ原松並木と呼ばれているそうだ。

足元は石畳の雰囲気を施したもので、上面が平になっていて歩きやすい。

錦田の一里塚

松並木の中に榎が一本あり、根本に土が盛られているが、ここが錦田の一里塚になる。

さらに驚いたことに道路を挟んで向こう側にも榎の木。

なんとこの錦田の一里塚は、国道1号線沿いの三島市街地に近い場所にも関わらず、両塚が残されていた。

接待茶屋の一里塚、笹原の一里塚、そしてここ錦田の一里塚と、三か所続けて一里塚が現存しているなんて凄すぎ!

塚にしっかりと根を張る姿に、四百年という歳月を感じた。

江戸日本橋から二十八里(約112km)。

初音ケ原松並木はここで終了。

五本松交差点を渡り、右に行き、すぐに左へ進む。

歩道は、先ほどの初音ケ原松並木とは違う雰囲気の石畳風になっていた。

そして右手の開けた場所から富士山が見えた。

我が静岡市からは右肩に見える宝永火山の噴火口だが、三島市からだと宝永火山が正面になり、両肩がスラリとなっていて綺麗だ。

愛宕坂

その先の下り坂が愛宕坂と呼ばれていた場所。

ここは江戸時代の初期に人も馬も滑ってしまう大変なところだった。

そこで幕府は延宝八年(1680年)に、それまで竹を敷いたものから石畳に改修。当時の愛宕坂は、長さ140m、幅3.6mだったそうだ。

現在石畳風に整備された道路の下には、往時の石畳が埋まっている箇所もあるらしい。

愛宕坂はこのY字路を左側に行き、

さらに下り、

東海道本線を渡り、

また下り、愛宕橋まで長く続いた。

いやー、登りじゃなくてよかった!

庚申堂

愛宕橋の先の左手には、嗣中で安置される庚申堂がある。

ここは林光寺の旧跡だそうだ。

太陽の位置はだいぶ低くなったが、目的の三島宿中心地まではあとわずか。なんとか日暮前には到着しそう。

新町橋を渡ると、その先が東見附(江戸見附)があった場所。

現在痕跡や石碑などは残っていなかったが、ここからいよいよ三島宿に入る。

そして、江戸時代の三島宿最大の観光地が見えてきた。

三嶋大社

こちらが伊豆國一宮の三嶋大社になる。総門で一礼をして拝観させていただく。

こちらは慶応三年(1867年)竣功の神門。そして門の奥に見えるのは同じく慶応三年(1867年)竣功の舞殿だ。

一番奥には慶応二年(1866年)竣功の国指定重要文化財、三嶋大社御本殿が構えていた。

源頼朝が再興を祈願した歴史ある本殿は総けやき造りで、精細な彫刻が印象的。商売繁盛、厄除けなどのご利益があるそうだ。

本日は暮れも迫る12月29日ということで、すでに初詣の装飾が施されていた。

境内にも出店が用意されており、この記事は2026年1月2日に書いているが、今年の正月も多くの初詣の方で盛り上がっていることだろう。

問屋場跡

本日最後の目的地はこの三島中央町郵便局。ここは江戸時代、問屋場があった。

問屋場は江戸時代、武士や公家などの公用の旅人と荷物を次の宿場に送るために、馬や人足、駕籠を担ぐ駕籠舁きの確保をしていた。

三島宿は難所の箱根八里の輸送を担当していたため、業務は膨大で、馬と人足は常に不足し、問屋場は多忙を極めていたという。

歩みの記録

そして、三島宿の中心地だった本町交差点に到着。東海道一の難所と言われた箱根八里を、無事踏破した!

今回の道中は前回の小田原宿から箱根宿以上に石畳を歩き、もうお腹いっぱい。しばらく見たくない・・・。

ただ、今回は登りではなく下りだったのが、せめてもの救い。江戸を目指す方は覚悟してほしい。

では、いつものようにiPhoneのフィットネスアプリで、本日の行程の記録を見ていく。

  • 出発日:2025年12月29日(月)
  • 時 間:10時16分から16時48分(6時間32分)
  • 距 離:18.13km
  • 高 度:300m
  • 天 気:晴れ
  • 気 温:5度
  • 湿 度:68%

本日は10時16分と遅い出発で、三島宿に着いたのが日没の時間と同じ16時48分。今回はかなりペースが遅かったのだが、なんとか日が暮れる前に到着できた。

箱根宿と三島宿は三里二十八町で、現在の道の実測は14.9kmだが、途中迂回路があったり名所を観光したりした結果、18kmほど歩いた。

そして上昇した高度はちょうど300m。道中はほとんどが下り区間だったが、出発地点の箱根関所から箱根峠までの道中がかなり厳しい坂道だったので、そこで稼いだのだと思う。

ということで、二日をかけて箱根八里を制覇し、次回は沼津宿を目指す。

やっと平坦な道になるが、みなさんに楽しんでもらえるよう、多くの名所旧跡を紹介しながら歩くので、興味のある方は下のバナーから続きをどうぞ。

いやー、今日も疲れたー!

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