今回も旧東海道踏破の旅の続き。
静岡市の自宅から新幹線に乗り、掛川駅から東海道本線に乗り換えて磐田駅に到着。ここから前回のゴールとした見附宿の西木戸跡へ。
Yahoo!乗換案内で確認するも徒歩で行けと指示されたので、前回と同じ道を1.3km逆戻り。尚、この道は旧東海道なので、この後また歩くことになる・・・。
見附宿西木戸跡が近づくと、ららぽーと磐田行きのバスが停車する。バスの方向幕を見ると磐田駅発!?おーいYahoo!乗換案内、バスあるやんけ!!

ということで、Yahoo!乗換案内に騙されて徒歩で見附宿西木戸跡に到着。
本日は晴天で夏が近づき本日はこの旅で一番暑く、スタート前から背中にじんわり汗が出てしまったが、のんびりと旅を楽しもうと思う。
では、今日もライカM11をぶら下げて、浜松宿に向けて、いざ、出発!
府八幡宮

見附宿西木戸跡から200mほど歩き、ここを斜め左へ。

旧道を150mほど進み、郵便局の先で県道に復帰(左折)。

すぐに府八幡宮がある。
鳥居をくぐると本日は参道でバザーが開催されるようで、出品者がせっせと準備をしていた。

目を奪われるほどに美しく立派な楼門は、寛永十二年(1635年)に徳川家によって建立されたものらしい。

こちらが神様が鎮座されているというお社。
そのとなりには奈良時代に建立され、元和三年(1617年)に再建されたという本殿(撮り忘れた)がある。その本殿再建をした願主は二代将軍秀忠公の娘和子(まさこ)ということで、府八幡宮は徳川家と深い関係にあったようだ。
遠江国分寺跡

府八幡宮の向かいに遠江国分寺跡と書かれた碑がある。
遠江国分寺は奈良時代の寺で、聖武天皇が発した国分寺建立の詣により、全国の律令国に建立された国分寺の一つ。

七重塔や金堂の礎石を残しており、現在は発掘調査をしているようだ。

その先にある変わった形の磐田商工会議所の建物には、ジュビロの旗が掲げられている。

磐田駅の手前のジュビロくんのいる交差点を右折する。

ここ磐田市は言わずと知れたジュビロ磐田のホームタウンということで、ジュビロ推しがすごい。J1に戻ってもらいたい。

旧東海道は坂を下りそしてここから上る。この坂は大乗院坂と言うらしい。
この後に渡る天竜川流域に広がる遠州平野にある磐田市の中心は平だと思っていたが、こんな坂道があるとは知らなかった。

右手にあるアパートから顔を出した老人から、「良い天気でイイねえ」と声を掛けられる。
天気は良いが、5月中旬なのに歩いていると汗ばむほどの暑い日。もう少し涼しければなお良いのだが・・・。
そしてこの交差点を左折して県道に合流する。
くろん坊様

その交差点に、かつて物盗りに殺されたインド人の旅僧(黒坊大権現)を祀ったという、くろん坊様と呼ばれる祠がある。
外国人が物珍しかった江戸時代は、インド人の肌の色を見ても黒いと思ったのか。ならばアフリカ系の方を見たらさぞかし驚いただろうと、到底不謹慎なことを考えてしまった。
尚、くろん坊様は咳や熱病に御利益があるそうだ。

くろん坊様から500mほど歩くと名残りの松があり、その先の左手にあるマクドナルドを見ながら、今日の昼は何を食べようかと思いを巡らす。昼には浜松に入っているので、うなぎ?いや、うなぎはひと足先に袋井宿で食べたから、もう一つの名物餃子にしよう。
などと考えていると、あれ!?宮之一の一里塚が無いぞ??
宮之一の一里塚跡

5分余り引き返すと、先ほどのマクドナルドの目の前に復元された宮之一の一里塚があった。あー、マックばかり見ていて見失っていた・・・。

昭和四十六年に復元されたという宮之一の一里塚は、日産の敷地に取り囲まれて設置されていて、塚木の松も可愛らしく植っていた。
江戸日本橋から六十三里(約252km)。
秋葉山常夜燈

こちらは木製の秋葉山常夜燈。木製は珍しく、たしか袋井宿手前以来二つ目だと記憶している。

文政十一年(1828年)建立の常夜燈は、天竜川が近いからか美しい竜の彫り物があり、竜頭とも呼ばれているそうだ。
松向寺

その木製常夜燈を左折すると松向寺がある。

ガイドブックによると本堂は元禄十四年(1701年)建立とあるが、どう見ても新たに建立されたであろう白木の本堂。
調べてみると令和六年末に再建されたらしい。今まで見てきた多くの寺社本堂も、建てられたばかりの頃はこんな色をしていたのだろう。

SAKURAというインド料理屋から良い香りがして、まだ10時半なのに腹が減り、餃子が待ち遠しい。

名残り松を過ぎて300mほど歩き、

このY字路を左に進むのが旧東海道。
若宮八幡宮

こちらは明治七年に、近隣の二十八ケ村の神社を合祀して郷社となったという若宮八幡宮。
毎年十月の祭礼で相撲が奉納されるそうだ。

電博のうち、文字媒体に強いのは博報堂と言われているが、街の新聞販売店も子会社にしているとはwww

と、アホなことを考えていると、この信号機があるので右折する。
この辺りはかつて長森立場と呼ばれた休憩所があった場所。街道には山田屋という店があり、長森かうやくというあかぎれや切り傷に効いたとされる膏薬が売られていて、旅人の土産品として人気を博していたという。

信号を右折したら200mほど進み、この交差点を左折する。
天竜川

そして階段を上がると、

長野県の諏訪湖を水源として遠州灘に流れる、全国9位の長さを誇る天竜川に出る。
江戸時代、天竜川は大井川のような川越人足による徒歩渡しではなく、幕府から公認された渡舟による渡河が行われていた。
が、今回はもちろん舟ではなく橋で天竜川を渡る。

土手を上流方向に進み、

昭和九年完成のトラス橋の天竜川橋は歩道が無いので、

並行する国道1号線の新天竜川橋を利用する。

車が通れるほどに広い歩道に驚くも、それよりも驚いたのが車線の数・・・片側4車線!?
さらにとなりの天竜川橋も含めると片側5車線!
ここから静岡県最大の都市である浜松市。浜松といえばスズキ。愛知のトヨタもそうだが、法人税を多く納める自動車メーカーは国交省が優遇するのか、道路がとても整備されていることに驚く。

新天竜川橋の渡詰めを左に曲がり、

階段先のベンチでちょっと休憩。先週末から股関節が異常に痛く、本日は身体を労わりながらの旅になる。

少々休憩をしたら土手を下流に進む。
明治天皇玉座迹の碑


土手の脇に明治天皇玉座迹の碑がある。
明治十一年に明治天皇が北陸東海御巡幸をされ、11月1日にこの場所にあった金原明善が興した治河協力社の建物内で御休憩をされた。その建物は明治二十五年に焼失してしまったそうだ。
明治天皇は多くの場所に御巡幸の碑が建っており、鉄道や車などがなかった時代に足繁く各地を訪問され、国民が大いに喜んだことがよくわかる。
ただ、この碑のまわりには草木が茂っていてなんとも気の毒。国交相の方、もう少しお気遣いを・・・。

すぐに舟橋跡の標柱があり、その先に見える階段を下りて、

その先を右に進む。
六所神社

その右手にあるのが、天竜川渡しの守護神、六所神社。
古くから船頭や旅人たちから厚い信仰を集めてきた神社で、三柱の海神と三柱の航海の守り神、合計六柱の神々が祀られている。

六所神社を出たらすぐに左折。
中野町銀行跡

するとすぐに立看板がある(裏側)が、それによるとここは中野町銀行があった場所だとのこと。
この辺りは江戸時代に川越しの集落として多くの旅人たちで賑わい、明治から大正時代においては天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極めた。
当然多くのお金が動き、明治十五年に竜西社が結成され、二年後に中野町銀行が誕生した。
中野町銀行は合併を経て、現在は静岡銀行に吸収されるも、昭和四十九年まで煉瓦造りの建物が存在していたそうだ。

この地面に残る煉瓦から、往時の面影を少しだけ偲ぶことができる。
天竜川橋紀功碑

その先にある石碑は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に船橋を架け、明治七年にはふたたび船橋を完成させた、浅野茂平の業績を刻んだ天竜川橋紀功碑になる。
東橋跡

この場所にはかつて東橋という土橋があった。
先ほどの中野町銀行の説明でも書いた通り、この辺りは明治から大正にかけて船運で栄え、ここが花柳界の入り口だったそうだ。
男とお金の集まるところに花柳界あり。遊郭バンザイ!
石垣清一郎生家

こちら石垣内科医院は、与謝野晶子の明星に参加した浪漫派歌人の石垣清一郎の生家。
軽便鉄道軌道跡

明治期に日本中に多くできた軽便鉄道。ここ中野町村から浜松までも明治四十二年に軽便鉄道が造られ、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車を一両引いて、のんびりと走っていたそうだ。
そんな軽便鉄道は昭和三年にガソリンカーに変わり、昭和十二年に廃線になるまで、沿線の多くの住民の足として愛された。
松林寺

美しく整備された参道が印象的なこちらの寺は松林寺。無論、中国武術を教える寺ではない。
正中元年(1324年)開山の松林寺は、慶安元年(1648年)に徳川三代将軍家光公から寺領五石の朱印状が交付された由緒正しいお寺になる。

山門中央に居座るマントを纏った地蔵が可愛らしい。

そして威厳がある本堂のとなりには、

徳川家光公が建立したという薬師堂がある。

かつては松並木だったという道を歩いていると、立派なお屋敷が見えてきた。
金原明善翁生家

この立派な屋敷は、私財を投じて天竜川の治水事業に尽力したという、金原明善の生家になる。
金原明善といえば、先ほどの明治天皇玉座迹の碑のところで登場した、治河協力社を興した人物だ。
これだけの立派な屋敷に住むお金持ちなので、私財を投じても・・・などと考えてしまう、不届者の私。

金原明善翁生家の内部は無料で観覧ができるようだ。

なんてことのないように見える右の細い道は、市野宿を経由して御油宿に至る姫街道の浜松の起点だった場所。
ちなみに前回歩いた見附宿内に、見附宿からの姫街道の起点があった。
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安間の一里塚跡

姫街道の起点のすぐ先に安間の一里塚の標柱がある。

現在は塚などは残っておらず標柱のみだが、往時は左右の塚の上に榎が植えられていたそうだ。
江戸日本橋から六十四里(約256km)。

安間の一里塚の先で県道に合流。

安間川橋を渡り、

国道1号線バイパスのガードをくぐる。

そして今も残る松並木を見ながら進む。
立場跡

根性の曲がった松の先に立看板。ここは江戸時代に立場があった場所らしい。
この立場には藤棚があり、多くの旅人を楽しませたと伝えられている。

名残りの松並木は長く続くも、どの松もだいぶ疲れているようだ。
松の寿命は長くても400年。東海道が整備されたのは江戸時代の極初期で、当時植えられた松はすでに420年以上が経過しており、人間に例えると100歳超え。名残りの松も次第に見られなくなるかと思うと悲しい。
妙恩寺題目碑

新しい民家の横に歴史深い碑が建っている。こちらは妙恩寺題目碑になる。
なんともわかりづらい髭文字で書かれた題目碑だが、どうやら『南無阿弥法蓮華経』と刻まれているようだ。

妙恩寺題目碑から150mほど進んだ交差点の先の、緑で覆われた場所が次の目的地になる。
六所神社


こちらは六所神社。天竜川を渡った場所にもあった六所神社は全国に200-300社ほど存在しているらしい。
こちらの六所神社は神社前の巨大な松がこの辺りのシンボルだった。
直径3m、根回り4.5m、樹高17m、推定樹齢250年の立派な黒松だったが、昭和五十四年の台風で枝が多数損傷し残念ながら伐採されたそうだ。

六所神社を出ると、旧東海道の先の彼方に静岡県No.1の高さを誇るアクトタワーが見えた。本日のゴールはあのすぐ先。まだまだあるなあ。
浜松餃子と冷麗冷やし汁そばをビールで流し込む
時刻は12時半。六所神社向かいのかどやという中華料理店から、美味しそうな香りがして一気に腹が減る。先ほども書いたが今日は完全に浜松餃子の気分。そろそろ店を探そう。

しばらく歩くと『らーめんぎょうざ』の看板。Googleマップの評価も高いようだ。よし、この店にしよう。

まずは瓶ビールとぎょうざが登場。つけ合わせにもやしが盛られるのが浜松餃子の特徴だ。
うん、しっかりとニンニクが効いていてこりゃ美味い!
ビールともよく合うぜ。

そして運ばれてきたのが夏季限定の冷麗冷やし汁そば。
さっぱりツルツルのこの冷たい汁そばが最高に美味い!
いやー、クセになるこの美味さ。浜松を訪れた際には必ずまた来よう。
子安神社

ほろ酔い気分で訪れたのが、源頼朝の弟 範頼が娘の安産を祈願して創建されたという子安神社。
秋祭りでは母乳に似せた甘酒が振る舞われ、これを飲むと乳の出が良くなるという。
『ボインは〜赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜、おとーちゃんのもんと違うのんやでぇ〜』
と、月亭可朝の名曲が頭をよぎる酔っぱらいの私は、境内に立ち入ってはならぬと思い、この場所で手を合わせて立ち去った・・・。

子安神社を出たら大通りを渡り、ここから国道152号線になる。

道路標識に浜松市街まで3kmとある。本日のゴールまで一里を切り、いよいよラストスパートだ。

琵琶橋を渡る。正面のアクトタワーも少しずつ大きくなってきた。

右手に見えたこちらは蒲神明宮の鳥居。
龍梅寺

こちらは龍梅寺。
境内には梅陰幻香禅童女墓碑がある。享保十五年(1730年)に東海道を通行中に急病で亡くなった、松平伊豆守信祝の娘光の墓。
馬込の一里塚跡

龍梅寺から300mほど進むとあったのが馬込の一里塚(向宿の一里塚)。
塚は明治十年ごろには取り壊されたそうで、現在はこの看板のみが立っていた。
江戸日本橋から六十五里(約260km)。
外木戸東門跡

旧東海道は馬込川を渡るが、その手前に浜松宿の江戸口があり、外木戸東門が設置されていて番所があった。
馬込川

馬込川を渡ると、東海道本線の電車と東海道新幹線が同時に渡っていた。東海道は今もむかしも日本の大動脈で、多くの人々が往来する。
尚、この馬込川は平安時代まで天竜川の本流だった・・・ホントに??

馬込川を渡ると先ほどまで小さく見えていたアクトタワーが大きく聳え建ち、ゴールはもうすぐだ。

アクトタワーの他にも高層ビルが並び建ち、静岡県No.1の人口を誇る浜松の繁栄は素晴らしい。
長く静岡県の覇権争いを続ける静岡市と浜松市だが、近年我が静岡市は劣勢気味。やっぱり浜松は都会だなあ。
夢告地蔵尊

そんなビルヂングの片隅に立派なお地蔵さんが祀られていた。
安政五年(1858年)にコレラが流行り、その犠牲者を供養した夢告地蔵尊だ。
明治の廃仏毀釈により埋められたが、町民の小柳丈之助の夢に地蔵が出てきて、「掘り起こしてほしい」と告げられたため、大正八年に掘り出されたそうだ。
そんな夢告地蔵尊は子授けのご利益があり、地域の人々から厚く信仰されている。

旧東海道は遠州鉄道線のガードをくぐり、さらに浜松の中心街へ向かう。

なんだか妙に印象に残った、女の子の像。
調べてみると『電話をしているお母さんを待つ少女』だそうで、平成三年にこの道に五体が設置されたそうだが、現在はこの一体のみが残っているという。

浜松城大手門があった連尺の交差点を左折する。
本陣跡

浜松城の城下町として栄えた浜松宿は、江戸末期には六軒もの本陣があった。
こちらの佐藤本陣もそのうちの一軒で、建坪は225坪だった。


その筋向いにあった杉浦本陣は浜松宿でもっとも古い本陣で、建坪は272坪だった。
現在は浜松いわた信用金庫になっている。


ビルが建つこちらの場所にあったのが、浜松宿で一番最後にできた川口本陣。建坪は少々小さな163坪だった。


梅谷市左衛門が務めた梅谷本陣の建坪は180坪。現在はザザシティ浜松という大型複合施設になっていた。
歩みの記録
今回は浜松宿の梅谷本陣前で終了とする。
ではいつものようにiPhoneのフィットネスアプリのデータを確認してみる。
- 出発日:2026年5月17日(日)
- 時 間:9時01分から14時57分(5時間56分)
- 距 離:17.83km
- 高 度:137m
- 天 気:晴れ
- 気 温:22度
- 湿 度:60%
朝9時に磐田市の見附宿を出発して、約6時間で浜松宿に到着した。ただ道中にランチを摂ったので、実際に歩いた時間は5時間30分ほどだった。
歩いた距離は17.83kmと、大磯宿-小田原宿、箱根宿-三島宿に次ぐ三番目の長い道中だったが、天気も良く見どころもそこそこあったので、楽しく歩くことができた。
ということで、次回は浜松宿から舞坂宿までを歩くので、興味のある方はお付き合いください。
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コメント
コメント一覧 (1件)
大福様 いよいよ浜松ですね。お疲れさまです。
府八幡宮、立派な神社ですね。特に楼門の佇まいにはびっくりさせられました。「府」というのは地名なのでしょうか。それとも遠江国分寺跡が向かいにあるそうですので、昔々国府が置かれていたところなのでしょうか。国分寺、七重塔があったとは、相当立派な国分寺だったようですね。くろん坊様というのも面白い。今なら使用禁止用語? 秋葉山常夜燈、立派な作りですね。こんなのが建てられているところを見ると、当時この地域が豊かだったのではないかと思ってしまいます。食べ物の匂いというと私はチキンラーメンとカレーの匂いに弱いらしいです。伴侶が言っていました。自分ではそんなに意識したことがないのですがね。 (^_^;) 天竜川の異名は暴れ天竜と言われているとか。金原明善のことなどと思い合わせて、初めて天竜川を見たときどき、どんな川だろうとドキドキしたことを覚えています。中学校の修学旅行の時のことですが・・・。 (^_^;) 六所神社、当時の人々の生活に根付いた神社だったのですね。いい感じ・・・。中野銀行跡、レンガが地面に残っているのですね。残っていることを喜んで良いのかちょっと複雑な気持ちになります。こんなことは大福様のブログを拝見しなければ分からないことかも・・・ですね。花柳界の入り口にある橋が思案橋でなく東橋というのも面白いですね。軽便鉄道の件、面白いですね。私の田舎にも、そういった鉄道を走らせようという計画が合ったとか。もしかして一種の流行のようなものだったのでしょうか。金原明善、懐かしいですね。二宮尊徳などと共に子供の頃絵本や読み物として見たことがあります。二宮金次郎と違って金原明善はお金持ちだったのですね。知らなかった・・・。街道に藤棚が作られていたなんて、珍しいですね。夏は日陰、冬は日が当たって良い休憩所になったことでしょう。六所神社の松残念でしたね。残っていれば天然記念物に指定されていたかも。浜松餃子、美味しそう。さすがスーパーで売っているものとは大違いですね。一度本場物を食べてみたいです。月亭可朝の歌、ご存じなんですね。私が若い頃はやった歌ですのに・・・。だんだんと景色が都会になってきましたね。でもやっぱり静岡は景色が広い・・・。オア写真に、遠くに山が映り込んでいないのですから・・・。だんだん厚くなってきます。お身体に気をつけて旅を続けられますように・・・。